2012/11/29

卵の日 その2

7月上旬のある日曜日の午前2時過ぎ。朝寝をした挙句、昼寝までしたので眠れないし、あまりに暇なので、ベッドの上でノートパソコンを抱え、怪しげなウェブサイトを覗いていた。
「まだ起きてるのかよ。またパソコンいじってるし」
と言いながら家主のHが入って来た。
「お前こそなんで起きてるんだよ」
「眠れなくてテレビ見てた。ところで、疲れてないか?」
Hが夜中に部屋にやって来て、疲れてないか?と聞くときは、大抵何かを企んでいるとき。
「昼間ずっと寝てたから全然疲れてないよ」
「今から卵とりにいかないか?」
「スーパーに? 今だったら誰もいないから盗りやすいね」
「そうじゃなくて、トンプソンに」

とういわけで、我々は物置からロープを引っ張り出し、サンドイッチとコーラ、ジュースをホンダに積み込んで、トンプソン岬へと出かけて行った。

深夜とはいえ日の沈まない白夜なので、いつ出発しようとも関係ない。海には、今季最後の小さな氷が幾つか浮いているが、次の北風で海から氷はなくなるだろう。

海岸を1時間弱走り、トンプソンの丘の麓、綺麗な水の流れるイスックで一休みがてら、水筒に水を汲み、トンプソンの丘を登って行く。

ツンドラの台地を走って行くと、いつもの匂い、鳥の糞の匂いがしてくる。そこが目的地。
「体重から言ってオレが降りるんだろうな」
「そういうことだね」
体重の軽い自分が崖を降りることになった。
ハーネスがないのでロープを身体に縛り付け、反対の端をホンダに縛ってアンカーに。万一滑落しても、ロープの長さ以上に落ちることはなく、最悪ホンダで引き上げられる(絶対に落ちたくはないが)。
普通、ロープを握るのは3人以上。一人ということは安全上あり得ないのだが、今日はH一人だけ。

粘板岩質のボロボロの脆い崖。急角度で落ち込む斜面の高さは海まで100mはあるだろうか。
実は、高い場所に何の支えもなく立つのはとてつも無く怖いのだが、柵があったり、身体がロープで支えられていれば、不思議なことに恐怖感は全くない。

そろそろと斜面を下って行く。最初の断崖に卵はほとんどなく、さらに下へ。
「まだロープあるかー?」
「まだあるよ!」
「じゃあ少し緩めて!」
崖の上と下で、大声で叫びながらやり取りをする。
崖っぷち。アッパルーラックと割れた卵
少し下り、棚状になった場所の両側に卵を見つける。
「卵あるかー?」
「今、拾ってる!」
身体の前にぶら下げたデイパックに卵を入れて行く。長い柄のついたスプーンを使うが、何度か卵を落としてしまった。来年はもっと使いやすいものを作ろう。

卵の横に干からびて煮干のようになったイカナゴが1尾落ちていた。アッパルーラックが普段餌にしているものだろう。イカナゴはウグルック(アゴヒゲアザラシ)の腹の中からも出て来るから、このあたりには豊富にいるのかもしれない。

「まだロープある?」
「もうない、ギリギリいっぱい!」
これ以上崖を降りることはできず、拾える範囲の卵は拾い尽くしたのて、上まで引き上げてもらう。

「ロープが足りなくて、ホンダに結んであったのほどいてギリギリだったんだよ」
「えっ。まじ?」
ロープの端はあと1m程度しか残っておらず、落ちたら二度と上がって来られない状態だったらしい。

2年後の7月上旬の夕方近く。
「Tから卵を拾いに行くって携帯にメール来てるけど、どうする?」
「H、お前はどうするの?」
「嫁さんの調子悪いから、一人で行って来きていいよ。ホンダはガソリン入ってるから」
「わかった。行くって連絡入れといて」

この数日前、Tたちとトンプソン岬まで卵を拾いに行った際、後日また出かけようということになっていた。

出発の準備をしていると、TとZが家まで迎えに来てくれた。今回は無線機を2台用意して準備万端。崖の上と下から叫びあう必要はない。ハーネスは日本から持って来たロッククライミング用のもの。

トンプソン岬のいつもの場所。ロープとハーネスの準備はできた。
TとZを見ながら
「えーっと、オレが降りるんだよね」
と言うと、二人は声を合わせて
「そういうことになるね」
Tは太り過ぎでハーネスのベルトが留まらないのは明らか。Zはハーネスに信頼がおけないらしく、まずお前が試せと、懐疑的な顔をしている。
ハーネスを装着し、無線機のテスト。
「オレは英語出来ないから、無線機には日本語で話しかけるように」
「日本語っていうと、バンザイとか?」
「うーん、それはたぶん、落ちるときに言うかもしれないけど…」

いつもの斜面をそろそろと降りて行くと、ロープが岩を引っ掛け、すぐ横を拳大の石が落下して行く。
途中の崖に卵はない。昼間、Aたちが卵拾いに来ていたらしいく(ものすごい量の卵の写真がフェイスブックにアップされていた)、拾い易いところのものはすべて拾われてしまったようだ。

頭に付けたカメラで撮影
少し下った、2年前に卵を拾ったあたりまで降りてくると、ぼちぼちと卵が見えて来た。
自分で作ったスプーンで遠くの卵を拾う。最初は少し失敗して卵を落としたが、要領がわかると、非常に使いやすいスプーンだった。自画自賛とはこのことだな、と思いながら、崖を一歩降りると、卵を踏み潰した。

無線機で上げ下げの指示をしながら、崖を横へと移動する。

近くまで行っても逃げないアクパス(アッパルーラック)に、ごめんよと言いながらスプーンで卵を拾う。
目に付く範囲の卵を拾い終わり、降りて来た崖をロープに引かれながら登り返す。
身体の前にぶら下げたデイパックが岩にぶつかって、卵が幾つか割れてしまったが、30数個の卵が採れた。

隣の斜面へと移動する。
今度は小さめのハーネスを無理矢理つけたZが斜面を降りる。
崖の上は意外と暇なので、Tと世間話をしながらロープを握っている。
「子供の頃、テレビでドラゴンボールZっての見てたけど、あれは日本のもの?」
「そうだよ。こっちでも『カメハメハー』ってやってた?」
「うん、やってたよ」
と、ロープから手を離してカメハメハの動きを真似するT。
今回はホンダを支点に、ロッククライミング用のカラビナを滑車代りに使っているので、一人でも滑落を止められないことはないとは思うが、出来ればロープは離さないで欲しい。

30分程して、Zが上がってきた。
「玉が痛い」
卵を拾っているZ
小さめのハーネスが股間に食い込んで痛かったらしい。今度は自分のハーネスを持って来ようと、つぶやいていた。
Zの話しによると、西の斜面の卵はほぼ採り付くしたが、東の斜面にはまだありそうだとのこと。

ダメだとは分かっているが、試しにTにハーネスを着けてみる。
「思い切り腹を引っ込めて見ろ」
ハーネスの金具の端にかろうじてベルトが止まっている。
「これじゃすぐにハーネスが外れて落ちるな。どうする?」
「なんだか腹のところで身体がちぎれそうだから止めておくよ。来年までには痩せておくから」
「去年も同じこと言ってたよな」
「そうだっけ? でも、なんで日本人はみんな細いんだ?」
「食事のときに必ず箸を使うからね。箸を使えば食べ過ぎることはないし」
「そうか。今度アンカレジ行ったら、箸を買うよ」

ということで、太ったTはロープ専属になり、再度自分が降りることに。この斜面は降りたことがないので、ちょっと緊張する。
Zの言う通り、東の斜面に卵が見える。
卵を拾いつつ、斜面を下りながら、少しずつ東側へと移動して行く。身体の前にぶら下げたデイパックが徐々に重くなって行く。

急斜面に出来た幅3m程の小さな谷の向こうにたくさんの卵が見える。谷を越えれば拾い放題だが、足場は脆く、手をかける場所もないので、断念する。
上を見ると、このまま直登すれば崖の上に戻り易そうで、卵ももう少し拾えそうだ。
卵を割らないよう、デイパックを背中に背負い直し、登ろうとして岩をつかむと、つかんだ岩がそのまま剥がれる。それを下に放り投げて、比較的しっかりした手がかりをどうにか見つける。足を乗せると崩れ落ちる足場。左右に足を移動させ、比較的しっかりした足場を見つけ、崩れないように祈りながら、ゆっくりと身体を持ち上げる。それの繰り返し。

かなり東側へと移動してきているので、ここで落下すると、上でロープを握っているTとZの真下までブランコのように移動することになる。それも崖に擦り付けられながら。
「そうなると擦り傷だらけで血まみれでかなり痛いだろうな。今やっていることは、旅行保険で言うところの『道具を使った危険な行為』だよなぁ。そうすると滑落して怪我したり死んじゃっても、保険は下りないんだろうな」なんてことを考えながら移動を続ける。

ある程度崖を上がり、足場が安定したところで無線機で上に聞く。
「ここをまっすぐ登って行くと、上まで行けるのか?」
「無理だよ」
「無理?」
「うん、無理。そのまま左に移動しないと引き上げられないよ」
「わかった」

左手を見ると、土と岩が混ざったぼろぼろの急斜面。そこを通過して元来た場所へ戻るしか上へ戻る手段は無いらしい。さて、どうしたもんだろう。落ちれば血まみれだろうし。

崖で苦戦中(Tによる撮影)
左足を一歩横へ踏み出し、土の斜面へと爪先を蹴り込む。手は掴むものが無いので、掌全体で斜面を押さえつけて身体を安定させる。右足を横へ移動させ、左足同様に爪先を斜面に蹴り込む(雪山で使うキックステップと同じことをしていたのかもしれない)。
ぎりぎりの状態で斜面に張り付いていて、すぐにでも滑落しそうな危険な状態だが、このときはなぜか「絶対に落ちない」と言う自信に満ちていた。もちろん何の根拠も無い。アドレナリンが出て興奮状態だったわけでもなく、なぜかとても落ち着いた状態だった。
ゆっくりと横へ移動する。バランスがどうにか取れているのは、昔やっていたロッククライミングのおかげ。始めてロッククライミングをやっていてよかった、と思う。
しばらく悪戦苦闘した結果、見たことのある斜面にまで戻って来た。

「どうだ? 無事か?」
無線機から声が聞こえてくる。
「疲れたけど大丈夫だ。ちょっと休むから、少ししたら引っ張り上げてくれ」
斜面でロープに身体を任せて1分ほど休憩した後、崖の上へと引き上げられた。
動けなかった時間も含め、1時間ほど斜面に張り付いていたようだった。
喉はからからに乾き、汗だくになっていた。
セブンアップを渡してもらい、一気に飲み干す。

その後、別の斜面に移動し、Zがかなりの数の卵を拾い集めた。
その日の収穫は250個ほど。一人当たり80個以上のニギャック(分け前)となった。

「今回も落石があったね」
疲れたTと卵
とT。彼は昨年、頭に落石の直撃を受けている。幸い帽子をかぶっていて、小さな石だったので怪我はなかったが。
「本当はヘルメットかぶってないと危ないんだよな」
「来年は職場からヘルメット持って来るかな」
「それはいいかもね」
「あ、家にアメフト用のヘルメットあるよ、あれでもいいかな」
「じゃ、肩にあの防具も着けたら完璧だね、すごく重そうだけど」
「うん、ヘルメットも防具もすごく重い」

出発が遅かったこともあり、家にたどり着いたのは深夜3時過ぎ。
やはり後片付けもせずに卵を茹で始め、寝る前に採れたて茹でたての卵を家族とともに食べる。
卵はたくさんある。近所にお裾分けしても、たくさん残るだろう。チャーハンにして、エッグサンドイッチにして、焼うどんに入れてもうまいよな、などと思いながら、ベッドに潜り込み、昼過ぎまで寝ていた。
そして、昼間寝すぎて、再び眠れない夜がやってくる。

2012/11/23

名前の話し

ポイントホープの人たちは、エスキモーとは言えアメリカ人なので、基本的にみな、英語名を持っている。しかし、誰もが英語名の他にエスキモー語の名前を持っている。

英語名にしても、エスキモー語名にしても、近い先祖(祖父母、大叔父、大叔母など)から受け継ぐ場合が多く、結果的に同じ名前の人が非常に多くなる。

あるとき、数人の男たちが世間話をしていた。その男たちのうち「Herbert(ハーバート)」が4名。父がハーバートjr.、息子がハーバートIII世、息子の叔父がハーバート。途中で合流した男の一人がハーバート。
父のハーバートはいつもニックネームで呼ばれていて、自己紹介する際も、本名は言わず、ニックネーム。
叔父と甥っ子について話をする際は、大きいほう、小さいほうで区別したり、叔父はミドルネームがあるのでミドルネーム込みで呼んだり。
同じ名前がたくさんいても、意外とどうにかなっている。
ついでに言うと、ハーバート父ちゃんのエスキモー語の名前は孫と一緒。

曽祖父の義理の弟の名前をファーストネームに、曽祖父の名前をミドルネームに持つ
3歳のチャーリー・ジョン。
ジョンは既に故人だか、チャーリーはまだ元気。チャーリーがチャーリーをあやしていることがよくある。

エスキモーと名前の関係を語る上で欠かせないのがと「アチャック」と「ウーマ」という言葉だろう。
どちらも日常的に、頻繁に出てくる言葉で、前者の「アチャック」は自分と同じ名前を持つ人に対する呼びかけ。後者の「ウーマ」は自分の配偶者と同じ名前を持つ人に対する呼びかけである。
前出のチャーリーとチャーリー、ハーバート同志がそれぞれアチャック。ハーバート父ちゃんと孫もアチャック。
ハーバートの奥さんは、他のハーバートから見てウーマ。ハーバート父ちゃんの奥さんと孫の関係はウーマ。

家族単位で狩猟生活をしていた昔 、同じ名前を持つ人を家族の一員として扱うことで(拡大家族)、狩猟や生活を協力して行えるようになる。家族が増えることで、厳しい生活が少しでも楽になる。そういうことから「アチャック」「ウーマ」という関係ができたのではなかろうか。

かつて、キリスト教が入ってくる以前、エスキモーの間では、死んだ人は再び産まれてくることで再生すると考えられていて、亡くなった人の名前を産まれて来た子供につけていたそうだ。そんな過去の風習が現在まで続いているのだろう。
昔、自分よりずっと若い小さな子どもに対して「おじいさん」「お父さん」などと呼びかけることがあり、原語学者を悩ませたことがあったそうだ。これはその子の名前が、呼びかける人の祖父、父親と同じ名前だったからだそう。
孫の名前が自分の亡くなった姉と同じ名前なので、祖母と孫がお互いに「シスター(お姉さん、妹)」と呼びあっている例が今もあるが、これも過去の風習が今も生きているのだろう。

名前は神聖なものなので、他人に本名は決して明かさず、常にニックネームで呼びあっていた地域もあったそうだ。
ポイントホープでは、本名を明かさないわけではないが、常にニックネームで呼ばれている人がいて、あるとき本名を知って、今まで言っていた名前が本名ではなかったと知ってびっくりすることがある。
そしてニックネームの由来を聞いても、話せば長くなる、とかなんとか言って話をはぐらかされてしまう。

先祖伝来の名前を、ファーストネームにすることもあれば、ファミリーネームとして使っている場合もある。
オクタリックやティングックというファミリーネームがあると同時に、エスキモー語のファーストネームがオクタリックやティングックと言う人もいて、ちょっとややこしい。
非常にお世話になっている人のファミリーネームは「Kinneeveauk」。これでキニヴァックと読む。「e」が3つもあるので、郵便物の宛名を書く時に、eの数と位置が正しいのか、いつも不安になってしまう。
という話を、結婚してキニヴァック家の一員となった友人の奥さんに話をしたところ
「私もいつも悩むのよ」と。
彼女、結婚して既に5年以上経っている。

Kinneeveauk一族のある老人曰く
「昔はもっとeの数が多かくて、これでもだいぶ減らしたんだよ」
冗談が大好きなエスキモーの言うこと、果たして本当かどうかはわからない。

  参考文献「図説 エスキモーの民族誌(アーネスト・S・バーチJr.他)」原書房

2012/11/22

エスキモーって何?

日本人がエスキモーと言ってまず思い出すのは、アイスクリームだろうか。
長く親しまれて来たこのアイスクリームのブランドは、既になくなってしまっているが。
それはともかく「エスキモーではなくて、イヌイットと呼ばなくちゃいけないんじやないの?」と言う人が多い。
テレビを見ていてると「俺たちエスキモーは…」と言っているのに、字幕や吹き替えは「我々イヌイットは…」となっていることも多い。

イヌイットとは、イヌイット語を喋る「イヌイット語族」の人たちのこと。
イヌイット語を喋る人たちは、グリーンランドからアラスカにかけて生活している。ところがアラスカにはイヌイット語を喋らないエスキモーの種族もあるので、その人たちのことをイヌイットと呼ぶのは、間違えであるというより、非常に失礼である。

エスキモーにイヌイットは含まれているが、イヌイット=エスキモーではないのである。
図にするとこんな感じ

例えばアラスカに住むユピックという人たちはイヌイット語を喋らないので、イヌイットではない。ところが頑なにイヌイットと呼ぶ人が日本にはいる。
どこかで「ユピック・イヌイット」という、わけのわからない書き方をしているのを見たことがある。恐らく「ユピック・エスキモー」と何かに書いてあったのを見て、エスキモーは差別用語だからと、「エスキモー」の部分を何も考えずにイヌイットに変えてしまったのだろう。

「エスキモー」という言葉については、スチュアート ヘンリ(本多 俊和)先生が詳しい解説を書いている。
http://www.campus.ouj.ac.jp/~stew_hon/HTML/inuit_eskimo01.html


要約すると、
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「エスキモー」とは、もともと東カナダのラブラドール半島に分布するモンタニェー語に由来する言葉であり、モンタニェー語からラブラドール沿岸にきていたバスク人の漁師たちを通じて、1625年ごろにヨーロッパに伝わったと思われる。
当初、フランス語の文献や地図では「エスキモー」はミクマックという人々と、ツンドラ地帯で生活しているエスキモーを合わせて指す呼称として使われるようになり、18世紀に入るとこの呼称はツンドラ地帯のエスキモーだけを意味するように変化していった。この当時「エスキモー」という言葉には軽蔑的な意味合いは含まれていなかった。
カナダ東部のクリー族(インディアンの一種族)の言葉に「エスキモー」には「生肉を食らう輩」という意味があるとされているが、そうした解釈には根拠がないようである。
しかし、根拠がないまま「エスキモー」は「生肉を喰らう輩」という意味で19世紀になって欧米の文献に登場するようになった。
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仮にエスキモーが「生肉を喰らう輩」を意味したとしても、そもそも生肉を食うことが野蛮なのか、という個人的な疑問がある。
日本人ほど生肉を食べる民族はいないのではないかと思うこともしばし。たとえば、魚は生で食ベることが非常に多い。時には生きたまま丸呑みすることもある。牛馬も生で食べる。卵を生のまま食べるのは、世界的には少数らしい。
日本人は野蛮なのか? きれいに切ってあるからあれは生ではない料理だ、と言い張るのだろうか。

アラスカのエスキモーの人たちは、自分たちのことをイヌイットと呼ぶことはない。公式文書でも「エスキモー」となっている。
カナダのイヌイットの集落で、伝統的な犬ぞりに乗っていた活動している日本人の友人は、地元のお年寄りに
「お前は、エスキモーよりもエスキモーみたいだな」
と言われたそうだ。
恐らく、エスキモーにとって「エスキモー」という言葉は、誇りにこそなれど、差別用語という意識はないのではなかろうか(カナダについては知識がないので完全な憶測です)。

人類はアフリカで生まれ、延々と旅を続け、ユーラシア大陸(シベリア)とアメリカ大陸(アラスカ)が陸続きだった5万年ほど前の氷河期に、初めてアメリカ大陸に足を踏み入れた(その後、温暖化が進むとともに海面が上昇し、1万3000年ほど前にシベリアとアラスカの間にベーリング海峡が生じた)。
ちなみに海面上昇は6000年ほど前がピークで、日本では「縄文海進」として知られており、日本付近では現在より海面は1〜2m高かったと言われている。

アメリカ大陸へ渡った人たちのうち、初期に渡った人たちは、そのまま南に進み、最終的には南アメリカへと移動して行った。
6000年ほど前には、現在のエスキモーの祖先と言われる人々が住み、4000年ほど前までには、アラスカからグリーンランドにかけて広がって行った。

シベリアから直接南下したり、一度南下してから北上した人たちが、我々日本人の先祖だろう。
エスキモーも、日本人も同じモンゴロイドで、幼い頃には、エスキモーにも蒙古斑のある子もいる。

息子「ねえ、なんでぼくに蒙古斑(モンゴリアン・スポット)があるの?」
父「お前が母ちゃんのお腹の中にいるとき、母ちゃんがモンゴリアン・ビーフ
(アメリカでよく食べられる中華風の炒め物)をたくさん食べてたからだよ」

  参考文献「図説 エスキモーの民族誌(アーネスト・S・バーチJr.他)」原書房

2012/11/20

ポイントホープの日本人(1)

ほとんど観光資源らしきものもなく、部屋にシャワーもトイレもない、狭いシングルルームのホテルも素泊りが1泊150ドルほど。食事は韓国人経営のレストランで、ハンバーガーか、不味くて高いけれど量だけは多い中華料理を食べるか、スーパーで何か買ってきて食べるか、あるいは地元の人と仲良くなって、何かご馳走してもらうか。
そんな町なので観光で来る人はほとんどおらず、やって来る人は取材や会議、ある種の技師なと、特別な用事の人がほとんどである(それでも時々ツアー客がやって来ることがある)。

ポイントホープを訪れた日本人、古くは明治大学の調査班。1970年代に植村直己はグリーンランドから犬ぞりでやって来て、キャプテン、ジョン・ティングックと共にクジラを捕ったこともある(ジョンは我が78クルーの先代キャプテン)。ジョンの奥さん、エイリーンばあちゃんが
「彼はコーク(セイウチの皮を茹でたもの)をお腹に良いって言って、毛ごと食べちゃってたわねぇ」
と言っていた。ジョンもエイリーンも、今は天国で植村さんに向かって同じ話をして笑っているかもしれない。

近いところでは、日本からテレビ取材班がやって来て、悪天候で取材がほとんどできず、目的半ばで帰って行ったこともあった(1週間でクジラの猟の取材をしようなんて無茶な話である)。
ドイツからやってきたテレビ取材班は「え? あんた日本人なの? エスキモーかと思った」とえらく驚いていたが、特に取材されることもなく、気がついたら彼らは町からいなくなっていた。

そんな町に、時々ふらっと一人でやって来る日本人がいる。なぜかそれは女性ばかりで、アンカレジなどで、誰かに知り合いのポイントホープの人を紹介してもらってやって来たという。
ポイントホープに滞在し、ある種のカルチャーショックを受けて帰って行く。
例えば、初めてウグルックの解体を見て、気がついたら泣いていた人だとか、意外と黒人が多くてびっくりしたりとか、どこの家にも炊飯器があることとか。
炊飯器と言えば、今は亡きヘンリーじいちゃんは「昔(恐らく1960〜70年代)、何かの調査で来た日本人に炊飯器を貰ったことがあるよ」と言っていたので、ポイントホープの炊飯器の歴史は、意外と長いのかもしれない。

このようにふらりとやって来た日本人のほとんどは、ポイントホープを再訪することはない(結構な僻地であることも理由のひとつだろう)。

一度、日本人女性の友人Mがアメリカ合衆国最北端にあるエスキモーの町、バローを訪れた帰り、ポイントホープへ立ち寄ったことがあった。
ちょうど猟と猟の合間の、のんびりとした時期だったので、ホンダで町を案内したり、エスキモードーナツ(揚げパン)を作ったり食べたり、子守りをしたり。極北の小さな町の生活を、短いながらも楽しんでいたようだった。

時々、居候先の排水管が凍ったり詰まったりで、生活排水全般が流せなくなることがある。メンテナンスを行う人たちが忙しかったり、修繕用の資材がなかったりすると、水を流せない状態が数週間続くこともある。
しかしそんな状態でも、台所の流しに置いた大きなボールの中へ水を貯めて洗い物をし、汚れた水は外へ捨てに行く。洗濯とシャワーは隣の家主の実家のものを借りる。
そしてトイレは伝統の「ハニーバケット「(エスキモー語でコグヴィック)」が登場する。
今から20年ほど前までは、水洗トイレが普及しておらず、どこの家でも大きなバケツに便座の付いたハニーバケットを使っていた。

これが「コグヴィック」 外で撮影
Mが滞在していた時、まさに排水管トラブルの真っ最中だった。
あるとき、Mがトイレに入っているときのこと、トイレから妙な機械音が聞こえてきた。スッキリした顔でトイレから出てきたMの手には、インスタントカメラと撮影済みの写真。妙な機械音は、インスタントカメラが写真を吐き出す音だった。
「アナック(ウンコ)の写真撮ってたの?」
「違うって。トイレが珍しいから撮ってたの」

それ以来、何年経っても、家主にとってMは「コグヴィック」の写真を撮っていた女性、ということになってしまった。

それから数年経ったある年のこと。別の日本人女性がポイントホープに長期滞在していたことがあった。
彼女は滞在先で食事をあまり出してもらっていないかったようで、いつもひもじそうにしていたので、時々、自分の居候先の夕食に誘ってあげたりしていた。
彼女は、あらゆるものを音を立てて食べるので、みんなでこっそり笑っていたのだが、それはどうでも良い話し(欧米人は食べるとき飲むとき、なるべく音は立てない)。
いつも腹を減らしている割には少食で、あまりお代わりもしない。
実は彼女、遠慮していたようなのだが、基本的にエスキモーの家で遠慮してはいけない。大量に作るし、たくさん食べてもらった方が嬉しいのだから。
変に遠慮されるより、腹一杯になって満足してもらったほうが招待した方は嬉しいのだよと、言っても、少ししか食べず、わけのわからない屁理屈をごねていた。

彼女が帰ったあと、家主が言う。
「日本人の女の人って、みんなあんな風に少食なの?」
「Mって覚えてる?」
「コグヴィックの写真撮ってた人?」
「そう、その彼女」
「あー、そうか、そうだね」
多くを言わずとも納得した様子の家主。

Mは何でも美味しそうに、どっさり食べるので、日本の共通の友人に「吸い込むように食べる」と言われたことがある。
個人的には、美味しそうにたくさん食べる人の方が好ましいので、吸い込むようにに食べることに対して、特に不満はない(他人の食べ物にまで手を出さなければ)。
それに伴って脂肪層が少々海産哺乳類のようになったとしても、自分は考え方が多少エスキモー的なので(猟師の誇りは太った女房)、特に文句はないが(女房はいないが)、もちろん限度はある。過ぎたるは病気の元なのだよ、M。

Mの名誉のために言っておくと、彼女は人間として、とても魅力的な女性である。

2012/11/17

エスキモーと戦争

何の本か忘れてしまったが、昔「エスキモーは他民族と戦争をしたことが無い、平和を好む民族です』という文章を読んだ記憶がある。
確かにいつも冗談を言って笑顔を絶やさないので、平和な民族と思われても無理は無い。
実際はそんなことは無く、それなりに抗争もあったようで、セイウチの牙を薄く切って作った「鎧(よろい)」が残っていたり、インディアンとの抗争があったという言い伝えもある。
昔話(民話、伝説)を読んでいても、突然、何の脈絡も無く人を殺しに行こうとしてみたり、どう考えても平和を好んでいるようには見えない。
現代では、 酒を飲むと際限なく飲んでしまい、酔っぱらって大喧嘩をするのもざらである(ポイントホープでは、酒は飲むのも持ち込むのも違法)。しまいには銃を持ち出して、殺すの死ぬのの騒ぎになり、たびたび刑務所の世話になっている人もいる。

さて。
1970年代のベトナム戦争終了以降、徴兵されることは無いが、アメリカ合衆国には徴兵制がある。そのため、エスキモーでも第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦争に行ったことのある人がそれなりにいる。
友人宅の壁に大きく引き延ばした古い白黒写真がある。銃剣付きの銃を持った若い歩兵が緊張の面持ちで、こちらを見つめている。これは太平洋戦争中に撮られた、戦地での友人の父親の写真だそう。
70歳代の友人は、朝鮮戦争で朝鮮半島に行ったことがあるそうで、彼の地では食べ物がうまかったと言っていた。朝鮮戦争は、彼にとっても古い記憶で、あまり多くは語ってもらえなかった。

あるとき、友人のPと話しをしていると、彼は日本に行ったことがあるという。どこへ行ったのかと尋ねると「沖縄」との答え。
エスキモーにとって沖縄は暑かっただろうな、などと思いながら質問をすると、沖縄のあと、もっと暑いところへ行ったと。ベトナムへ行く途中に沖縄に立ち寄ったとのこと。
Pはベトナム戦争に行っていたのだった。
「徴兵されて、陸軍の施設に行ってね、上官に、お前は自動車の運転ができるか? って聞かれたんだ。車の運転なんかしたことないから、できません、って答えた」
「で、上官が、オートバイの運転はできるか? って聞くんだよ。もちろんそんなことできないから、できません、って答えた」
「今度は上官が、じゃあ自転車には乗れるか? って聞くから、それもできないって答えた」
1960〜70年代のポイントホープは、まだ自動車はそれほど普及していない。車があったとしても一部の人しか乗れない特殊なものだった。
「お前は何か操作できる乗り物はあるのか? って聞くから、犬ぞりならできる、って答えたんだ」
「ベトナムに雪は無いよねえ」
「そうなんだよね、暑いし」

呑気に徴兵のときの話をしているPだが、実際の戦場では、目の前で爆弾が炸裂し、重傷を負ったそうで、そのときの爆弾の破片が今も体内に残っているとのこと。
P自身は多くを語らないが、他の人の話だと、ベトナムから帰って来たばかりのPは、酒やドラッグに溺れ、手をつけられないくらいに乱れていたとのこと。かなり壮絶な体験をして来たのだろう。
そんなPだが、今ではポイントホープの歴史を調べ、その様子を絵に描いたり、あちこち歩き回り、古い石器を探したり(古いと言っても数百年前のもの)、ポイントホープの過去の文化を独自に調べたり、親戚の子供の子守りをしたりしてのんびりと過ごしている。

Pについての余談。
普段、温厚で人に指図したりすることのないPだが、あるとき日本からテレビ局が取材にやって来て、Pをガイドとして雇った。するとPはディレクターに対し、煙草を買って来いとか、飲み物を買って来いとか、険しい顔で指図している。
普段、Pのそんな姿を一度も見たことが無いので、日本人のテレビ取材班に背を向けて笑ってしまった。
後日、日本でテレビを見ていると、そのときとは別のテレビ局の番組で、レポーターの若い日本人女性を案内しているPの姿があった。どこかデレッとしていて、これまた普段見かけないPだった。

友人数名が、州兵として軍務についていた数十年前のこと。
本土(アラスカではないどこか)の空港ロビーで軍服を着たまま飛行機を待っていた。
すると女性が一人近づいて来て、花を差し出しながら、その中の一人に声をかけた。
「ミスターO、恵まれない人のために、この花を買っていただけませんか?」
「え、あ、はい」
ミスターOは、見ず知らずの女性にいきなり自分の名前を呼ばれたため、びっくりして、つい、その花を買ってしまったそうだ。
「今の女性、なんでオレの名前知ってたんだ? オレはあの人に一度も会ったこと無いぞ」
一緒にいたほかの男たちは大笑いしながら、彼の胸元を指差す。軍服の胸元には名札が付いている。
「じゃ、なんでオレに声をかけて来たんだよ」
「そりゃ、お前の名前が一番読みやすかったからだろう」
エスキモーの人たちの名字は、英語風のものもあるが、先祖から受け継いだ、非常に読みにくいものも多い。
例えばそのとき一緒にいた「Kinneebeauk」。これは「n」と「e」がたくさんあって、どう読んでいいのかわかりにくいが、これで「キニヴァック」と読む。
花を売りつけられたミスターOは「Oviok」で、そのまま「オヴィオック」と読める。
二人並んでいれば、オヴィオックのほうに声をかけるだろう。

友人宅で片付けを手伝っているとき、小さな箱の中に友人の古いドッグタグ(軍の認識票)を見つけたことがある。
町を歩いていると「Veteran」と刺繍の入った帽子をかぶっている人を見かけることがある。退役軍人であることを誇りにしている帽子だ。前述のPも時々かぶっている。
ポイントホープもアメリカであり、軍隊も戦争も、日本より身近にあるように感じる。有事の際、場合によってはここの若者たちも徴兵されることもあるのかもしれない、そんなことを考えてしまう。

「オレ、軍隊に入ろうかな」
「何やるんだよ、狙撃兵か?」
「そうだね、オレたちエスキモーは鉄砲撃つのうまいから、狙撃兵に向いているかもね」
「でもさ、人を殺さなくちゃいけないんだぜ」
「そうだよなぁ、それは嫌だなぁ...」
始めから軍隊になんて入る気の無いHだった。

ポイントホープの生活 その2

ポイントホープの夏、だいたい6月下旬から8月中旬にかけてでしょうか。ツンドラの雪はすべて溶け、花が咲き乱れ、海の氷も全くありません。
風のない晴れた日には、気温は20度を越えることもあり、そんな日は、みんな短パンとTシャツで外をうろうろしています。ただ、日が陰るとあっという間に気温が下がり、凍えるほどです。
学校の夏休みは、5月中旬から8月下旬まで。アメリカ本土と一緒なのかどうかはよくわかりません。
白夜の真っ最中なので、子供たちは夜通し遊び、昼間寝るような暮らしをしています。日本だと規則正しい生活がどうのこうのと学校も親もうるさく言うのでしょうが、こちらでは特に何も言いわず、子供の好きにさせています。
冬休みはクリスマス休暇なので、休みは新年を含めたそのあたり。さほど長くないと思います(冬休みのことはよくわかりません)。
この時期、冬至の前後は極夜、一日中日が昇らない季節なので、家にこもっているよりは、学校へ行っていた方が気が紛れるのでないかと思います。

学校では、給食が出るので弁当は持って行きません。給食の詳しいメニューは知りませんが、ハンバーガーとフライドポテトなどが出ることもあるそうです。
猟で遠出をする場合や、海岸でウグルック(アゴヒゲアザラシ)のピーラック(解体)を行う場合などは、弁当を持って行くことがあります。
カリブー猟など遠出の場合の弁当はハムとチーズを挟んだサンドイッチが多いです。冷凍庫にマクタック(クジラの皮)やアヴァラック(クジラの尾びれ)などがある場合は、持って行くこともありますが、これは弁当と言うよりもおやつの代わりかもしれません。
ウグルックのピーラック(解体)では、前の晩の残り物などをタッパーウェアなどの入れ物に入れて持って行くことがありますし、誰かが作った暖かい食べ物を鍋のまま持って行くこともありますが、これを弁当と呼んでいいのかどうか。クジラ祭り(カグロック)で貰って冷凍庫に保存しておいたミキアック(熟成させたクジラの肉)を持って行くこともよくありますが、これもまた弁当と言っていいものか。
ウグルックのピーラックでは、一度に何頭も解体する場合があり、ガスコンロと鍋を持ち込んで、その場で解体したばかりのウグルックの肉や腸(イガロック)を茹でてたべることもあり、こんなときはピクニックをしている気分になります。

空気は乾いているので、普通に市販されている毛皮類は家の中にぶら下げておいても特に問題はないとは思いますが、彼らが自分たちで捕った動物から剥いだ毛皮は、化学的な鞣し(なめし)加工がされていないので、すぐにカビが生えたり痛んでしまいます。なので、そういった毛皮で作ったジャケットなどは、外気温とたいして変わらない、外の物置に保管してあることが多いです。また、マクラック(毛皮のブーツ)などの小物は冷凍庫に保管している場合もあります。
ちなみに、現在、手元にある自分のマクラックは、そのままだとあっという間にカビだらけになってしまいそなので、冷蔵庫で保管しています。
日本人の友人が、グリーンランドのエスキモーに作ってもらった毛皮のジャケットやブーツを持っていますが、それらは防虫剤をたっぷり入れたプラスチックの箱で保管しているそうです。

今まで書いて来た文章を見てお気づきかと思いますが、エスキモー語(イヌピアック語)の名称や行為がそれなりに出て来ています。また、このブログ内に「単語集」としてまとめてある単語、これらは日常的に使われているエスキモー語の単語です。彼らが普段使っている言葉は英語なので、英語の中にエスキモー語が散りばめられていると言った感じでしょうか。
1960〜70年代、学校でエスキモー語を使うことが禁止されました(かつて日本が朝鮮半島で行ったことと同じ理由でしょう。ちょうどベトナム戦争の頃で、先住民の人たちも徴兵されて、ベトナムへ派遣されていました)。
その結果、今でも日常会話としてエスキモー語が喋れる人は、60歳代以上の人たちだけとなってしまいました。
現在は、学校でエスキモー語や文化を教える授業が行われており、語学学習で有名な黄色い箱の「ロゼッタストーン」シリーズの「イヌピアック語」版なんてのも出てきましたが、少々遅かったような気がします。

大統領選挙の仕組みはややこしくて、今ひとつ理解していません(アメリカ合衆国の大統領選挙について詳しく知りたい人は、Wikipedia等を参照してください)。
アメリカ合衆国の国籍を持っていれば投票権はありますが、投票したい人は「選挙人登録」というのを自分でしなくてはなりません。果たして選挙人登録をしている人がポイントホープにどれだけいるかわかりませんが、ポイントホープにもいわゆる「町役場」に投票所が設けられていたので、投票する人はいたのでしょう。

アラスカは大統領選挙人が3人と、選挙人が全米で最も少ない州の一つです(詳しいことはネットで調べてください。書いていて良くわからなくなってます)。人口も少なく、選挙する上で、それほど重要な州ではないので、遊説があったとしても、後回しになるでしょう(大統領がアラスカを訪れたと言う話自体、あまり聞きません)。

長い余談ですが、前回、民主党のオバマと共和党のマケインとの選挙の際、共和党の副大統領候補でサラ(セイラ)・ペイリンという女性がいました。地元アンカレジの元テレビリポーターで、元アラスカ州知事だった人です。
民主党やマスコミはスキャンダルを探して、彼女を追い落とそうとしていましたが、テレビ演説などで、意外と物を知らないことをさらけ出してしまい、自爆していました。
マスコミが彼女のスキャンダルを探した結果、高校生の娘が未婚のままボーイフレンドの子供を妊娠している、といううことを見つけ、ネタにしていました。
アラスカの、特にエスキモーの間では未婚の高校生の母は珍しいことではないので、何がスキャンダルなのだろう、なぜこんなどうでも良いことを、大々的に報道しているんだろう、と自分は不思議に思っていました。
サラ・ペイリンの旦那さんは、ユピックエ・スキモーという先住民で、二人から見ても、なぜそんな普通で、子供ができると言う嬉しい出来事がスキャンダルネタになるのか不思議だったことでしょう。
不思議なことついでに言えば、日本での報道では、彼女の旦那は「イヌイット」だ、としているところが多かったこと。
これは、実は完全な間違えで、ユピック・エスキモーは民族学的にはイヌイット語族ではないので、イヌイットではないのです。彼が日本でのこの報道を知ったら、きっと憤慨していたことでしょう。

さてさて、質問に簡潔に答えればいいことを、長々だらだらと書いてしまいました。
今のところ、質問内容はほぼ網羅したと思いますが、答えが足り無いかもしれないですし、新たな疑問が湧いて来るかもしれません。
いずれ質問がたまれば、また、長々だらだらと回答させていただきます。

2012/11/14

ポイントホープの生活 その1

結構な数の質問があるようなので、回答も兼ねたポイントホープの生活のお話し(その1)。

かつて、キリスト教が入ってくる以前は、シャーマンが生活の中心にあったようです。
白人の捕鯨者とともにキリスト教が入ってきて、教会も建てられました。これが100年以上前の出来事。
土の家に住みながら、日曜日には町外れに建てられた教会へと通うようになりました。
そして今ではほとんどの人がキリスト教徒で、さらにキリスト教原理主義という、相当信心深い人たちも多く、その人たちによって、シャーマンは全否定されてしまいました。かつて、お年寄りの中には、シャーマンの話をしてくれる人もいましたが、今ではシャーマンはよくない、という話ししか聞きません。
そんなわけで、クリスマスに限らず、キリスト教のお祝い事は必ずお祝いします。ですからクリスマスツリーの飾り付けも欠かしません。
一番近くに生えている針葉樹の高木は、ポイントホープから数百キロは離れているので、生木のクリスマスツリーはなく、日本でもおなじみの市販のプラスチックのツリーを使います。家の周りに電飾を飾る家も多く、クリスマスに飾り付けた電飾を春先にようやく外す、なんてこともざらです(春先は点灯していません)。

ガソリンは町に一軒あるガソリンスタンドで買えます。 ガソリンを使うのはホンダだけでなく、自動車(ピックアップトラックが多い)、海での猟に使っているスピードボート(モーターボート)、スノーマシン(スノーモービル)の燃料もガソリンですので、ガソリンは必需品です。ガソリンスタンドで売っているものは、レギュラーガソリン、軽油、灯油、プロパンガス。
年に一度、夏に船でまとめて運び込んで備蓄しています。そういう状況なので、ガソリンの価格は、アメリカ本土と比べると倍以上します。

ガソリンを買うにも、銃の弾を買うのにも、生活するためにはお金が必要です。なのでほとんどの人は何らかの職業を持っています。
アラスカの先住民の町には「ネイティヴ・コーポレーション」という、先住民の人たちが出資して作った会社があります。ポイントホープも「ティキガック・コーポレーション」という会社があります。
この会社は町のメンテナンスや店舗経営、アンカレジなどに系列会社を作り多角経営をしています。先述のガソリンスタンドで販売するガソリンなどの年間購入量、販売価格などは、ここで決めているようです。
この会社へ務めている人が、サラリーマンやOLといえばいえないこともでしょう。
日本のサラリーマンのように、平日は絶対に休まない、会社命、なんて人はいません。ちょっとでも自分の体調が悪ければ、すぐに仕事を休み、家族に問題があれば休み。残業って何? 休日出勤って何? それでも仕事は成り立っているようです。
他には、学校のメンテナンス、エスキモー文化を教える教師(一般の先生は、外部から派遣された白人が多い)などでしょうか。
ちなみに警察官も外部から派遣された白人です。毎日車でパトロールしていますが、町の人たちとの交流はほとんどないように感じます。
時々、仕事を持たない人がお金を得るためのようなアルバイトの募集がかかることがあります。以前、居候先の家主がやっていたバイトは時給35ドル(当時のレートで3500円ほど)。仕事内容は、道路に溜った水をポンプで排水している様子を終日確認(見ている)仕事。家主曰く「すげー疲れた」とのこと。

エスキモーは、日本人と同じ「モンゴロイド」です。ただ、この町の人たちは白人や黒人との混血が古くから進んでいて、明らかに黒人、明らかに白人だけど、エスキモーという人もいます。
展示している写真に写っているのは、主にエスキモー、時々黒人(アフリカ系アメリカ人)。東洋人である日本人は写真を写しているので、写っていません。
東洋人は他に、レストランを経営している韓国人が2名ほどいますが、猟や町の行事には滅多に顔を出しません。
そして、日本人。年に2ヶ月ちょっと毎年顔を出す日本人が一人いるだけで(自分です)、定住している日本人はいません。隣町のコツビューには日本人の子孫の「モト」さん一族がいますが(恐らく先祖は「ヤマモト」さん)。

どこの家にも衛星放送が見られるテレビがあり、日本のアニメもやっています。ドラゴンボールZや機動戦士ガンダムなどもかつて放映していたようです。今でも、ポケモンなど、日本のアニメをやっているようなので、それなりに流行っているのでしょう(アニメは良くわかりません)。
日本では懐かしのテレビ番組となっている番組も結構人気があり、「料理の鉄人」などは何度も再放送をしてましたし、「風雲たけし城」は未だ人気ありますね。
任天堂のゲームボーイシリーズは子供たちに人気で、ほとんどの子供が持っているのではないでしょうか。ソニーのプレイステーションも多くの家にあります。ただし、それらが日本のブランドだと理解している人たちがどれだけいるのか不明ですが。
野球好きだと、イチローら日本人メジャーリーガーの活躍をちょっと気にしているようですし、東日本大震災の際は、毎年やって来る日本人がいるので、CNNでの報道を気をもみながら見ていたそうです(友人宅にあいつは無事なのか、と何本も電話があったそう)。最近は多少は日本のニュースを気をつけて見ているのではないかと思います。
そしてポイントホープのひとたちは、他の町の人たちよりも、多少は日本のことを知っていると思います(自分が時々日本の話をするので)。

「その2」に続きます。

2012/11/12

卵の日 その1

「ゆで卵食いてぇー」
「冷蔵庫にまだ卵残ってるよ」
「ニワトリじゃなくて、アッパルーラックの卵」
「あぁ、そろそろだね。 今年は寒かったから、ちょっと遅いかもなぁ」
「土曜日あたりに様子を見に行ってみようか」

毎年、こんな会話が6月の終わり頃に交わされ、その数日後に、トンプソン岬へと出かけて行くことが恒例になっている。
飛んでいるハシブトウミガラス
アッパルーラック、通称「アクパス」、日本名は「ハシブトウミガラス」。天売島に生息している絶滅危惧種の「オロロン鳥(ウミガラス)」よりわずかに大きい(らしい)。
氷の海でクジラやアゴヒゲアザラシの猟をしていると、大きな群れが水面近くや頭のすぐ上を飛んで行く。
水面を泳いでいるものは、飛び立つためには長い滑走が必要で、ボートなどから逃げる際、滑走途中で飛ぶのをあきらめて、水に潜ってしまうものも多い。
そしてこのアッパールーラックが卵を産むのは、6月下旬から7月上旬にかけてのトンプソン岬の高く険しい崖の斜面。卵を拾える期間は1週間弱。

「ロープはあるよね?」とH。
「この間、短いの何本かつないだから、たぶん長さは充分だと思うよ。ハーネスもロッククライミング用のを日本から持って来たけど」
物置で見つけた太いナイロンロープが数本。Hが仕事に行っている間に、弱っているところを切って、編み込んでつないだものが50m以上ある。
上が今回作ったもの。下が以前のもの
「ロープがちょっと心配だけど、ま、大丈夫だろうね」
「それと卵拾うスプーン、新しいの作ったから」
「どうやって?」
「太い針金と凧糸と、物置にあった材木」
「そんなんで大丈夫かな、すぐに壊れちゃうんじゃない?」
非常に懐疑的なH。
離れたところから卵を拾うためのスプーン。以前使っていたものは、Hが作ったもので、おたまやタオル、針金、良くしなる釣竿で作ったちょっと使いにくいものだった。もうちよっと使いやすいものが欲しいね、とのこで、Hが仕事に行っている間に、ヒマに任せて物置にあったもので作ったものだが、強度は考えて作ったつもりだ。
「大丈夫だって。使ってみればわかるから」

土曜日。例によって昼過ぎまで寝ているH。そういうわけで出発は遅くなる。
夕方近くになってから慌ただしく用意を始めて、ホンダでトンプソン岬を目指す。この時期は白夜なので、出発時間は特に気にしていない。あるときは、深夜0時過ぎに出発したこともあった。
トンプソン岬に上がる手前の海岸で、20代前半の若者数名と合流し、スーサイド・ヒル(自殺ヶ丘)という物騒な名前だが、とても景色の良い丘陵地のトレイルを通って、トンプソン岬の丘へと登って行く。
目的地の崖に近づくと、アッパルーラックの賑やかな鳴き声と、養鶏場のような匂い、要するに鳥の糞の匂いが漂ってくる。
若者たちが長いロープとハーネスを持っていたので、卵を拾うのは彼らに任せて、我々はロープを握って彼らの補助をすることに。
Gがハーネスをつけ、卵を拾うスプーンを持っていなかったため、我々のものを貸す。上では5人の男がロープを握り、準備完了。
ロープに身体を任せて、急斜面をゆっくりと降りて行くG。
ロープには充分な人手がありそうなので、Gの姿が見える位置へと崖の上を歩いて行く。

「気をつけろ、あまり端に寄って落ちるなよ」
トンプソン岬の崖の上
「分かってるって」
「分かってないよ」
表土は崖に向かって、緩やかに下がっている。すなわち表土はじわじわと滑落しているので、表土と共に崖の下に真っ逆さま、ということもある。数10mある崖、落ちたらまず、助からないだろう。
Gは手とスプーンを駆使して卵を拾いながら、どんどん急斜面を降りていく。3〜40mは降りているだろうか。無線機を忘れたので、大声を張り上げてロープを握っている上に指示をしながら、右へ左へと移動している。
30分ほどしてから、満杯のザックとともに上がってくる。
ザックの中からは、5〜60個の卵。中には割れた卵もある。
「スプーン、どうだった?」
「結構使いやすかったよ」
自分で作ったけれど、家の周りでは試しようが無いので、果たして使いやすいかどうか不安だったが、どうやら問題なく使えるものができたらしい。一安心。

「W、お前、始めての卵拾いだよな?」
Tがニヤニヤしながら、尋ねる。
Wがうなずくと、
「これは一種の儀式と言うか、始めて卵拾いに来たら、みんなやることなんだよ。な、H」
「そうだね。オレも前にやったよ」
拾って来た卵
と、笑いをこらえながら答えるH。
Tは卵の中から、ヒビの入ったものを選んで、Wに手渡した。
「さ、そのまま飲んでみようか」
「え、まじ?」
「うん、まじ」
Tはポケットから携帯電話を取り出し、録画を始める。
Wは恐る恐る、殻の一部をむいて、渋い顔をして卵と周りの男たちを交互に見つめる。
「早く、ほれ、早く」
意を決して卵を割って口に流し込むが、鶏の卵の倍くらいの大きさがあるので、口から溢れ出しそうになる。
「飲み込まなくちゃだめだって」
こみ上げてくるのを必死にこらえながら、どうにかすべて飲み込んだが、サングラスの下の目が明らかに涙目になっているのがわかる。他の連中は笑いすぎて涙目になっていた。

「まだヒビの入った卵あるよね」
割れた卵
自分もヒビの入った卵を選んで、殻を割って口へ流し込む。
鶏よりも濃厚で甘い黄身の味が口一杯に広がる。
「醤油あると、もっとうまかったかもね。ご飯にかけて食べてもうまいんだよ」
そんなことを言っているとTが「今年はまだやってなかったな」
と言いながら、ヒビの入った卵を選んで、殻を割って生のまま飲み込む。

Tもそうだが、自分も、毎回卵を拾いに行った際、割れた卵を現地でそのまま飲むことにしている。している、というよりは、自分の場合、慌ただしく出発して、事前に何も食べていない場合が多く、大概腹が減っているので、おやつ代わりに食べているというのが真相である。

崖の中腹で卵を拾っているが、岩陰で姿は見えない
普通のアメリカ人にとって(エスキモーもアメリカ人)、卵を生のまま食べると言うのは、相当の下手物食いになるらしい。映画「ロッキー」で主人公がビールジョッキに入れたいくつもの生卵を一気飲みする場面があった。あのシーンはアメリカ人にとって、相当ショッキングな場面だったらしい。日本人の自分から見れば、大したことは無いと思っていたのだが。

その後、崖を何カ所か回って、200個以上の卵を拾い、参加した男たちで均等にわけた結果、一人あたり40個程度のニギャック(分け前)となった。
家に帰るなり、後片付けもそこそこに、ゆで卵を作り始め、出来上がったのは深夜3時頃。
熱々の卵の殻を剥いて、塩とコショウをかけて頬張れば、初夏の味。シールオイルを付けて食べてもうまいのだが、シールオイルは物置の冷凍庫の奥の方なので今回はあきらめる。
透明感のある白身と、ちょっと黄色の濃い黄身と。 ふたつも食べるとかなり腹にたまり、それと同時に疲れが一気に押し寄せて来て、ベッドへと倒れ込むのだった。

「その2」に続く

2012/11/09

Bのこと

ポイントホープでは、毎年、10組程度のクジラ組が出猟している。ひとつの組は、10名ほどの実働部隊(実際に猟を行う男性)と、食事や衣服の準備、ウミァックの皮を縫うための裏方(配偶者や親戚の女性)たちで、20名ほどの大所帯となる。
さらにキャンプや町での雑用係兼見習いとして、10歳前後の少年が数名。
彼らは「ボイヤー(boyer)」と呼ばれ、他のクジラ組から手伝いに来ている子供の場合も多い。

近年、ちょっと天候が悪化するとすぐに家に戻るようになってしまったが、10年ほど前までは海岸のテントで荒天待機をしたり、夜を過ごすクジラ組が多かった。
テントは分厚いキャンバス地の家型の大型のもので、10人ほどの人間が眠ることができる。
テント内にはドラム缶を切って作ったストーブがあり、夏に集めた流木、アザラシやクジラの脂肪(スィクパン)を燃料に、人が中にいる間は、常に火が燃えている。このストーブのおかげで、寒い日でも快適に眠ることができる。
夜の間、火の番をするのはボイヤーたちで、夜通し交代で薪やスィクパンをくべ続ける。

我々のクジラ組は、通称「78」。名前由来は、無線のコールサインから。そして我々のボイヤーのひとりBは、オクタリック(名前は名字由来)の組から来ていた。
ある日の早朝、キャプテンがあまりの寒さに目を覚ますと、ストーブの火が消え、傍では、Bと数名のボイヤーが爆睡していた。
キャプテンはストーブに火を起こし直すと、Bの履いていたブーツの紐を隣のボイヤーのブーツの紐に結び、さらにその隣のボイヤーのブーツの紐へと、ボイヤーの足を数珠つなぎにした。
そして火の番をしながら、水を火にかけ、コーヒーを沸かし始めた。
コーヒーの香りに誘われるかのように、他のクルーたちが起き始め、キャプテンが指さすボイヤーの足元を見て、笑いをこらえている。

クルーたちが全員起きても、Bたちはイビキをかいて寝ている。
「おい、B起きろ、出発するぞ!」
大きな声で、Bを揺り起こすキャプテン。もちろん、出発するつもりは全くない。
もそもそと動き、眠そうに目を開くB。
「クジラが来たから、すぐに出るぞ!」
慌てて立ち上がり、歩き出そうとするB。
するとよろめいて仲間のボイヤーのほうへと、転がる。
クルーたちは笑いをこらえきれずに大爆笑をしているが、Bには、今だに何が起こってているのかわかっていない。
他のボイヤーも起き出して、Bとともにうめき声を上げながら、もだえている。
ようやく、自分たちのブーツが結び合わされていることに気がつき、紐をほどき始めた。
「昨日の夜は寒かったなぁ」
キャプテンが大笑いしながら言う。
ボイヤーたちはバツの悪そうな顔をしながら、紐をほどき続けていた。

数日後、やはり寒い夜だった。その日もBたちがストーブの番をしている。
大方の男たちは床に敷き詰めたカリブーの毛皮の上に自分の寝床を確保し、横になって世間話をしている。
当時、まだ見習いもいいところで、ボイヤーとあまり変わらない身分の自分は、果たして寝てもいいものかと、ストーブ傍で男たちの様子を見ていた。
「シンゴ、父ちゃんの横で寝るか?」
キャプテンが自分の横に隙間を作り、指さす。
男たちは大笑いしている。
「うん、そうするよ、父ちゃん」
そう答えると、さらに笑い声が大きくなる。ボイヤーたちまでも笑っている。
父ちゃん、すなわちキャプテンのイビキに悩まされつつも、眠りについた。
と、思ったのも束の間、あまりの暑さに目を覚ます。キャプテンも汗だくになって目を覚ましている。
ふと見れば、しきりにスィクパンをくべるBの姿と、真赤になって薄闇に浮かび上がるストーブ。
「B、ちょっとやり過ぎだよ、そんなに大量にスィクパン入れなくていいから」
スィクパン、すなわち脂肪だけでは燃えにくいが、勢いよく燃えているストーブにスィクパンを投入すると、薪とともに液体の油が燃えることになり、非常に高温になる。

「なんだかサウナに入ってる気分だよ」
「本当、そうだな」

再び横になる。
要領を得たBの、適量の薪とスィクパンで、朝まで快適に眠ることができるかと、思いきや、父ちゃんのイビキで時々目を覚ましつつの睡眠となった。

数年後、Bは我々78を離れ、オクタリックのクルーとして働き始めたが、クジラ猟の合間など、しばらくは彼と一緒に、ガンやカモを撃ちに行ったりしていた。
あるとき、彼ひとりでスノーマシン(スノーモービル)で、猟に出かけたところ、スノーマシンが壊れ、身動きがとれなくなってしまった。どうしようもなくなった彼は、近くに雪のない草地が露出している場所を見つけ、そこで横になっているうちに眠ってしまった。
他の男が、ツンドラに転がっている人間らしきものを見つけた。スノーマシンで近寄って行っても、ピクリとも動かない。男は死体を見つけてしまったと思いながら、恐る恐る近づくと、それはBで、どうやら呼吸はしているらしい。
「おい、B」
声を掛けると、ようやく目を覚まし、事の成り行きを語り始めたそうだ。

それからさらに数年、ある頃から町でBの姿を全く見なくなってしまった。噂では刑務所に入っているとのこと。
何をしたのか知らないが、刑期は数年になるらしい。
陽気で素直な少年だったBが、どこで、どう間違ってしまったのだろう。
子どもの頃から知っているだけに、何か寂しさを感じてしまうのだった。


2012/11/06

寒いから...

エスキモーは寒さにとても強いか、というとそんなことはないと思う。東京に住んでいる日本人よりも寒さに強いとは思うが。
ただし、東京の冬の家は、彼らにとっては寒すぎるだろう。現在、エスキモーの住んでいる家は、暖房がしっかり効いていて、冬でも短パンTシャツでいられるくらいなのだから。
昔ながらの氷の家(本当は雪の家)「イグルー」はカナダの一部のイヌイットの冬の家(もともとイグルーとは「家」の意味)であり、今では住んでいる人はいない。

エスキモーの住んでいる北極地方は、一年中、雪と氷に覆われているわけではなく、かろうじて四季が存在している。
ポイントホープの場合、陽射しが強くなる5月中旬(人々は春と呼んでいる)を過ぎると、快晴で風のない、照り返しの強い氷の上では、暑くてTシャツでいられることもあるくらいだが、気温は氷点下だったりする。ちょうど日本の春先のスキー場と同じような感じだろうか。
6月下旬、短い夏の間には、海の氷もツンドラの雪も溶け、ツンドラは一面お花畑。晴れた日には日中の気温は20度に達することもある。信じられないくらいの蚊が発生するのもこの頃。

もし、エスキモーが寒さに鈍感で、寒さをそれほど感じないのだったら、あんな分厚い毛皮の服は発達しなかったろうし、「寒い」という単語も存在しなかったろう。
エスキモー語で寒いは「アラパー」。寒さを強調したければ「アラッパー」。
語感が「アジャパー(伴淳三郎の往年のギャグ、古いなぁ)」に似てるな、とすぐに覚えたエスキモー語のひとつ。

ポイントホープの一番寒い時期は2月ころ。氷点下20度以下、時には氷点下30度を下回ることもあるそうだ。北極圏とはいえ海岸沿いなので、内陸と比べるとかなり暖かい。

この時期、かつては、新鮮な食糧を得るために氷の上でアザラシ猟などをしていたが、今はスーパーへ行けば簡単に食糧が手に入るので、冬の間、強いて猟に出なくても生きていける。
しかし、オオカミやクズリなど、毛皮を取るための獲物は、冬毛の方が質がよいため、厳寒の中、獲物を探してスノーマシン(スノーモービル)で雪のツンドラへと繰り出して行く人もいる。

さて。
厳寒期のポイントホープには行ったことがないので、実際にどれほどの寒さなのかはよくわからない。しかし時々、この寒い時期、ポイントホープの友人Hと電話で話をすることがある。
「Wがこの間、川の方でオオカミ捕ってきたよ。ものすごく寒かったって言ってたよ」
「川」とは、ポイントホープからスノーマシンで2時間はかかる場所。
「Jは山の方行ってクズリ捕ってきたらしいよ」
「山の方」というのもやはり町から2時間はかかる場所。
そしてこちらから、いつも同じことを聞くのである。
「で、H、お前は何か捕ったの?」
すると答えはいつも同じ
「猟に出るには寒すぎる」

この前の冬は、あまりに寒いのでスノーマシンを物置から出すこともなく、仕事へ行くのにも、奥さんのトラックに乗せて行ってもらっていたという。
「寒がりのエスキモーの友だちがいるって日本人に言ったら、えらく驚いてたぜ、エスキモーは寒さなんか感じないんじゃないかって」
「そんなわけないって、寒いもんは寒いよ。ついでに、コカコーラとマクドナルドが好きなエスキモーがいるって言ったらよかったのに」
「そりゃもちろん、言ったよ」
お互い大笑い。

「最近、町の周りで白いキツネをよく見かけるよ」
「それ、捕まえりゃいいじゃん。毛皮を色々使えるんじゃない? 売れるだろうし」
「うーん、寒いからなぁ」

余談だが、恐らく、世界で一番寒さに強かった民族は、絶滅した南米パタゴニアのヤマナ族ではないだろうか。南極に近いあの土地で、ほぼ裸で暮らし、裸のまま、冷たい海に潜って漁をしていたという。
絶滅の一員がスペイン人に服を着せられたことだとかなんだとか。

2012/11/04

ある日のピーラック

海岸に引き上げられたウグルックは、下腹部に切れ込みを入れ、腸を少しだけ引き出しておく。ウグルック自身の体温と、5cmもある皮下脂肪が断熱材となり、何もせずに放置しておくと、内部から腐り始めるからだ。こうして腸を少し出してあれば、ビニールシートでもかけておけば、2日ほど海岸に放置しておいても肉が痛むことはない。

ウグルックの解体(ピーラック)は、女性の仕事。皮を捕鯨用のボート(ウミァック)に使用するため、穴を空けず、皮に余分な皮下脂肪を残さないような女性の丁寧な仕事が必要なのである。
町の南側の海岸で「リオのキャンプ」と呼んでいる場所が、我々のいつもウグルックの解体場所だ。
自分はビニールシートで風よけ(コータック)を作り、すぐに作業が始められるよう準備をしたあと、一度家に戻る。入れ替わりにEがトラックで出かけて行った。

その日のピーラックは、EとPの二人。どちらも今までの解体頭数は少なく、手慣れた人たちに教えてもらいながら作業をしていたが、その日は皆忙しく、解体するのは二人だけだった。

そろそろ手伝いが必要かと、30分ほどして海岸に戻ると、いつもと違う雰囲気で解体が進んでいた。
「何かいつもと違うよね」
「やっぱりわかった?」とE。
正中線に沿って、切っていくのはいつも通りなのだが、どうやら切れ目を深く入れ過ぎたようで、本来は少ししか出ていないはずの腸が、だらしなく腹部からはみ出している。
「これじゃ皮を剥ぐの大変だよねえ」
ウル(扇形のナイフ)で皮を剥ぐために皮の端に手を添えようにも、腸が邪魔である。無理をしてウルを動かせば、腸を切ってしまい、中から寄生虫が大量に出てくること請け合いである。
これが正しい方法(ほぼ皮が剥がれている)

このリオのキャンプ、名前の通りキャンプをしたり、猟の準備をしたりするため、色々なものが落ちている。要するにゴミなのだが。
付近を歩いていると、早速素敵なゴミを見つけた。

「今からオレのことを外科医と呼ぶように、これから手術するから」
と言いながら、拾って来た丈夫な細いロープを見せる。
二人はウグルックの傍らを離れ、コータックの陰に座って、コーラを飲みながら一休み。
ウグルックの5cm程の皮下脂肪に穴をいくつか開けて、拾って来たロープを通し、開いた腹部を縫い閉じていく。
腸がすべて腹腔内に戻るわけでもないが、皮を剥ぐには支障がない程度にまではなった。

作業再開。
時々、切れ味の落ちたウルをヤスリで研いであげながら、とどまることのない、どうでも良さそうな話に耳を傾けつつ(いわゆる井戸端会議である)、井戸端会議は日本と一緒だな、と思いつつ、コーラを飲みながら、氷の浮いた海をぼんやり眺めている。

ホンダに乗ってAばあちゃんが様子を見に来た。女性たちがこっそりとビッグボスと呼んでいる人だ。
「いい大きさのウグルックね、誰が撃ったの?」
当たり障りの無い話をしつつ、時々、ウルの使い方をアドバイスをしたりしたのち、Aばあちゃんは家へ帰って行った。
「はみ出た腸のこと、何も言わなかったね」
「でも、ものすごくじっくりと腹のところ見てたよ」
 「そうだよねえ。ちょっとびびっちゃった」
 EもPも、Aばあちゃんがいる間、何事も無いように話をしていたようだったが、実は相当びくびくしながら作業をしていたらしい。

「ねえ、この部分の切り方知らない?」
見れば、後脚の関節を切り離そうと苦戦している。
「なんで日本人のオレに聞くんだよ」
「だって毎年ピーラック見てるじゃない。だから私たちより詳しいかな、と思ってさ」
「毎年見てはいるけどさ。あ、パソコンの中に去年撮った写真入ってるから、パソコン持って来ようか? そうすればよくわかるんじやない?」
もちろん、本気でパソコンを持って来る気など無く、あくまでも冗談。
悪戦苦闘しながらも、EとPは、どうにか関節を切り離し、皮を剥がし終えた。
剥いだ皮は、黒いビニール袋に入れて、夏まで地面に埋めておくか、屋外の物置小屋の中に置いておく。数ヶ月放置して皮を変質させ、体毛をすべて抜いてしまう(ボートに使うため)。

肋骨の前部、胸骨(サキエック)を切り離すと、内臓があらわになる。食道と気管を口に近いところで切り、肺のあたりにフックを引っ掛けて、下半身に向けて引っ張る。Eが横隔膜にウルを入れると、内臓がじわじわと動き始める。内臓を引っ張り続け、最後に腸と尿管を切れば、内臓は一塊のまま、身体から離れる。
最近は内臓を食べる人も少ないので、そのまま海まで引きずって行って捨ててしまう。

時々、何を食べているのだろうと、胃や腸を開けてみると、未消化のキビナゴ、二枚貝の身、エビなどに混ざって、細長い寄生虫がもぞもぞと動いている。後日調べてもらったところ、これはアニサキスの一種だとのこと。
腸の中には平らで細長い、条虫(じょうちゅう)の仲間がうじゃうじゃとうごめいている。
ポイントホープの人たちがアゴヒゲアザラシの肉を生で食べないのは、この大量の寄生虫のためではないだろうか(根拠の無い憶測です)。

背骨と肉を切り離しているところ
背骨と肋骨の間の関節にウルを入れ、肋骨を外し、さらに背骨と食べるところの無い頭部を肉からはずすと、残ったのは、分厚い脂肪層の付いた布団のような肉。
 この肉を猟に関わった人、解体に関わった人たちで平等に切り分ける。
切り分けた肉は、ビニール袋に入れて家に持って帰り、茹でて食べたり、ミックーを作ったり。

さて、無事に二人きりでピーラックを終えたEとP。肉をトラックに積むと、後片付けもそこそこに、家に帰ってしまった。
「なんだよ、あいつら」
 とぶつぶつ文句をいいながら、コータックのビニールシートをたたみ、後片付けを済ませたのち、家に戻ったのだった。
遅れて家に戻ると、Eは既にベッドルームで、コーラを飲みながら、旦那のHと一緒にテレビを見つつ、くつろいでいるのだった。
「あ、終わったんだ、どうだった?」
Hがベッドルームから声をかけて来る。
 「すげー疲れた。Hもたまにゃ手伝えよ」
「今度ウグルックが捕れたらね」
「なんだよ、来年かよ」
「いや、明日捕まえるから」
後日、ウグルックは捕れたものの、ピーラックをしている場所にHの姿は無し。
Hがきちんとピーラックを手伝うようになるのは、まだ先のこと。

2012/11/03

ありがとう

クジラの猟では、天候と氷の状態が良ければ、何日も続けて氷の上で過ごすことがある。何日も起きているわけにもいかないので、眠くなれば、それぞれが勝手に、ベンチ代わりに使っているそりの上か、キャンプの脇に張った小さなテントで暖をとりながら寝ている。
10人弱いるクルーのすべてが一度に眠れるような場所は無いので、必ず誰かが起きていることになり、起きている人がクジラの見張り番となる。
そりの上で睡眠中


ある日の深夜、太陽は北の空の地平線近くで弱々しく輝いている。海にはまったく動物の気配はない。連日のわずかな睡眠、いい加減眠くなってきたころ、そりの上に空きを見つけて寝転がる。気温は氷点下5度ほど。暖かい服を着て、暖かいブーツを履いていれば、多少寒くても、熟睡しないまでも結構眠れるものである。
太陽の高度が上がり、少しずつ身体が温まり始め、腹が空いて目を覚まし、のっそりと身体を起こすと、目の前に立っていたMが
「オハヨ」
と声をかけて来た。
ぼんやりとした頭で、なぜ日本語が聞こえてくるのだろう? 自分はエスキモーの友人たちとクジラの猟をしているのではなかったか? と不思議に思いながら、Mを見上げると、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、再び
「オハヨ」
ふと周りを見れば、みんな笑っている。
「シンゴ、オハイオってなんだ?」
隣に座っていた男が声をかけて来た。
「グッドモーニングって意味だよ」
オハヨ、オハイオ(州)とほとんど同じ発音であるため、意外と覚えやすいらしい。

どこで聞いた話か忘れてしまったが、日本語で「グッドモーニング」はどこか州の名前であると覚えていた人がいて、ある朝、日本人に会って挨拶しようとしたのだが、どの州か思い出せず、口から出て来た言葉は
「ニュージャージー」
言われた方は、何がなんだかわからなかったと。

「日本語で『サンキュー』はなんて言うんだ?」
「『ありがとう』だね。サンキューベリーマッチだったら『どうもありがとう』かな」
「なんだかエスキモー語みたいだな」
「どこが?」
「アリガー、テイクー」
「なるほどねぇ」
食事が終わった際、ごちそうさまに当たる英語は「サンキュー」。食事を作ってくれた人に対して「サンキュー」という。
その食事がおいしければ「おいしかったよ、どうもありがとう」となるだろう。
それをエスキモー語にすれば
「アリガー、テイクー」
「有り難く」と聞こえなくもない。

その後、食後に
「アリガト」
という友人が出て来た。
「ごちそうさま」
と教えても、すぐに忘れてしまう。「ありがとう」でも間違えではないので、最近は特に訂正もしないでいる。