大学時代からの古い友人に岩内真実という男がいます。
僕がアラスカへ通い始めて数年目くらいに、一度だけコツビューまで一緒に行ったことがあるのですよ。
彼、コツビュー周辺に日本人を先祖に持つIto(アイトゥ)一族がいると言うことに興味を持って、その後ずっと調べていたらしいのですね(知らなかった)。
ずっと編集者をやっていて、本に関わる仕事はしていたけれど、まさか彼が本を書いたとは知りませんでした。
「チバのイトウ、アラスカのアイトウ 北西アラスカの日本人史」
民明書房から出版されたこの本、結構厚めの本なので、AIに要約させてみました。
文字数指定なしで要約させたら、章ごとに長さが違うんですが、そこはまあご愛嬌。伝えたい内容はしっかりと要約されてます。
この本の主人公の英太郎の写真、全く残されていないとされていたのですが、実は日本に帰国後、青森の地元新聞「五所川原日報」で取材を受けていて、新聞掲載時の写真を見つけることができました、とのこと。
紙の本は、全国の書店はもちろん、各種通販サイトでも購入可能。AmazonのKindle版も近日発売予定とのこと。
#アラスカ #alaska #民明書房
以下、要約です。
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はじめに
戦前、日本からアラスカに渡った日本人はそれなりに多かったのだが、世間に知られている人は数少ない。新田次郎の「アラスカ物語」で一躍有名になったフランク安田こと安田恭輔。
和田 重次郎は犬ぞり使いとしてアィディタロッドトレイルを開拓するなど活躍をしたものの、あまり知られていない。
市井の人として歴史に埋もれてしまった日本人が多い中、ある地域では忘れ去られることなく、伝説のように語り継がれる人もいる。伝説も何も、その日本人の子孫が今もその地域において重要な存在になっていることも多々あるのだ。
今回取り上げた伊東英太郎もそんな日本人のひとりである。
著者は30余年に渡ってアラスカに通いながら、一貫して伊東の調査を続けた。
長く同じ地域に通い続けることで、地元の人たちと密接に知り合うことができ、より明確に彼の人生を描くことが可能になった。
一人の日本人の記録を、人々の記憶から消え去る前に書籍として残せたことを大変誇りに思う。
第一章 千葉、横浜
1800年代後半、木更津で漁師の三男として生まれた英太郎。三男なのに「英太郎」。伊東家では男児に「太郎」と付ける風習があり、長男は源太郎、次男は仁太郎という。
漁師としての仕事は長男と次男が父とともに担っていたため、英太郎は10代から対岸の横浜港で荷役の港湾労働者として働いていた。
第二章 渡洋、北進
1900年のある日、貨客船亜米利加丸の荷役が終わり、一休みのつもりで船倉で昼寝をしている間に、亜米利加丸は出航してしまった。
英太郎が目を覚ましたとき、船は既に東京湾を離れ、千葉県沖の太平洋。今更英太郎を日本に返す手段もないため、船内雑務を手伝うことを条件に、食事とベッドを提供され、太平洋を横断。
シアトルで下船した英太郎は、ゴールドラッシュの噂を聞き、そのままアラスカへ向かう貨物船に乗り込み、ノームへと辿り着く。
第三章 山師、黄金
ゴールドラッシュで沸くノームでは、英太郎も山師の仲間入り。
海岸での砂金堀を行っていた山師たちに技術を学び、それなりの財産を築くこととなった。
当時、英太郎が住んでいたのは、宿と言うには難のありそうな掘立て小屋のような建物であり、当時の山師たちは、皆このような宿を常宿としていた。
いずれにせよ山師たちは、どんなに儲けようとも、あっという間に博打で全てを失い、一文なしになることが多かったことから、身分不相応な豪華な宿へと移り住むものは少なかった。
第四章 邂逅、結婚
貧相な宿から、海岸の砂金掘場へ向かう途中、海岸近くの集落に住むイヌピアックエスキモーの若い女性に一目惚れした英太郎。ろくに英語ができないまま、彼女に声をかける。
彼女の名前は「アッチュ」 いや「アッチュ」だと英太郎は思い込んでいた。実は「アッチュ」は、イヌピアックの言葉で「知らない、わからない」の意味である。
英太郎が彼女に名前を聞いた際、彼が何を言っているのか全くわからないので「アッチュ」と答えたのを、英太郎が名前と勘違いしたのである。
イヌピアック語など全くわからない英太郎と、英語のほとんど分からないアッチュ。二人が会話などできるはずもない。身振り手振り、地面に絵を描くことでお互いの意思をかろうじて通じさせていた。
「英太郎」という名前は、日本語を喋らない人たちにとっては、なかなか発音しにくい名前だ。英太郎は自分の名前を英語風に「えでぃ」と彼女に伝えた。
英語風に伝えたところで、そもそも彼女は英語がわからない。「エディ」は彼女には「アディー」と聞こえた。
「あでぃー」、この人は親に変わった名前を付けられたのだな、そう思いながらも彼女は彼のことを「アディ」と呼ぶようになった。
ちなみ「アディー」とは、イヌピアックの人たちがびっくりしたときや、困ったことがあったときなどに思わず口から出てしまう言葉である。
アディーとアッチュ。訳のわからない名前の二人は、間もなく、一緒に暮らし始めた。
英太郎は、これまでのような隙間風だらけの宿では、たとえ山師であっても、良いことはなかろうと考え、世界中からやってくる山師たちのための宿「Storm inn」を開いたのだった。
しかし翌1905年、悪名高きノームの大火で焼け出され、今まで稼いできた全てを失ってしまった。
第五章 固縛、呪縛
焼け出された二人は、ノームでの暮らしに見切りをつけ、アッチュの母親の故郷であるコバック川流域へと移り住んだ。
周辺の人たちの猟の仕事を手伝いながら、アディはコバック川流域でも猟師や商人のための宿、「Storm inn」を開く。
小さな宿ではあったが、付近に他に宿はなく、アッチュの人柄もあり、多くの人たちに慕われる宿となった。
また、英太郎は古老からカヤックの作り方を伝授され、地元の人たちのためにカヤックを作りをするなど、どんどんと地元へと溶け込んでいくのであった。
やがて二人は子宝に恵まれる。
アディとアッチュの長男は、今度こそエディと名付けられた。
アディ、エディ、現在、コツビユー周辺に多く住む「Ito(アイトウ)」一族の始祖である。
エディは地元の中学校を卒業し、一流の猟師となったが、これから先、猟だけでは生きていけないと悟り、父、英太郎とともに宿に関わることとなった。
第六章 帰郷、彷徨
息子のエディが30歳を過ぎた頃、英太郎は久しく帰っていなかった故郷、木更津のことを考えはじめていた。
エディに宿のことを任せ、彼は日本へと旅立った。アディは数年前、病気で世を去っているし、思い残すことはない。
英太郎は、サンフランシスコ経由で太平洋を渡り、数十年ぶりにかつて働いていた横浜港へ。そして横浜港から再び船に乗り、横須賀経由で対岸の木更津へと帰郷を果たす。
しかし、木更津の両親は既になく、兄達の消息もわからなかった。渡米後、時々日本へ手紙を書いていたものの、当時の状況を考えると、果たしてその手紙が家族の元へ届いていたかも怪しいものだった。
途方に暮れ、日本を旅をしながら、あらゆるものがすっかり変わってしまったことに衝撃を受けつつ、縁もゆかりもない青森へと辿り着いた。
この土地の寒冷な空気。アディと過ごしたコバック川流域を思い出せるこの土地を、英太郎は安住の地とした。
おわりに
エディの宿はその後も続き、エディの息子、アディの孫にあたるエディJr.が地元の町と町を繋ぐ小さな飛行機会社「Storm inn Aviation」を開設。現在はエディⅢ世が会社を引き継ぎ、現在も地域の人々にとって、重要な足となっている。
英太郎年譜
(略)