2013/01/05

初めてのポイントホープ

この話は、たいそう古い話なので、加筆修正が多々加わる可能性があります。写真はそのうち載せたいですが、あくまでも希望です

今から20年ほど前、1993年8月の終わり頃。アラスカでは秋が始まっていた頃。アンカレジからジェット機で行けるエスキモーの町、コツビュー(英語の発音に近い書き方だと「カッツブー」)の海岸でキャンプをしていた。コツビューは人口は3,000人ほどの北極圏にある町だ。

キャンプをしていたコツビューの空港の南側の海岸には、サケを捕るためのフィッシュキャンプのためのテント村があった。その一角に自分の小さなテントをはらせてもらい、近所の人たち(エスキモー、白人)と、片言の英語でやりとりしながら食事をご馳走になったり、一人でツンドラの薮の中へ歩いて行き、一時の探検ごっこをしてみたりしていた。
コツビュー滞在もそれなりに楽しいのだが、飛行場の周りに何軒かあるコツビュー周辺の町へと飛行機を飛ばしている飛行機会社の建物を見ているうちに、もう少し小さな町も見てみたいと思うようになった。

よくわからないまま、尾翼にホッキョクグマの絵が描いてあるケープスマイス航空の事務所に入り、カウンターの上に置いあった時刻表を貰ってきた。
時刻表には聞いたことのない町の名前がずらりと並んでいる。順番に見て行くと、その中に唯一知っている名前があった。
「ポイントホープ」
中学生の頃、何度も何度も読み返した植村直己氏の著作「北極圏1万2千キロ」に登場した町の名前。グリーンランドからコツビューまで、犬ぞりで旅をした際に立ち寄り、一緒にクジラ猟をした町。その文庫本にクジラが氷の上に転がっている不鮮明な白黒写真が載っていたことを覚えていた(実はそんな写真は出ていなかった。他の書籍載っていた写真の勘違いだと思われる)。
「とりあえず、ポイントホープに行ってみよう」
ケープスマイスの事務所に戻り、ポイントホープのことは何もわからないまま、片言の英語で、翌日のフライトを予約した。

翌日の午後、コツビューを飛び立った数人乗りの小型のプロペラ機。初めて乗る小型機にワクワクしつつ、窓に広がる北極の海岸線やツンドラの大地に見入っていた。
ツンドラの大地が海へと落込む断崖絶壁が続いてい場所で飛行機が高度を落として旋回する。パイロットは副操縦席に座っている一般人と思しき人と何かを話している。
当時はここがどこで、何のために旋回をしているのかわからなかったが、そこは、その後何度も訪れることになるトンプソン岬。そして飛行機は時期的にその付近にやってくるであろう、カリブーの群を探していたのだと思う。

トンプソン岬を過ぎて間もなく、コツビューから1時間ほどで北極海に突き出した砂州の先にある小さな町、ポイントホープが見えて来た。いかにも「地の果て」の様な場所だった。
飛行機の窓から見える海岸には、所々にテントが建ち、わだちのようなものも見える。海岸にテントを張れそうだな、そんなことを考えているうちに、飛行機は次第に高度を下げ、町外れの滑走路へと着陸した。

飛行場には物置小屋のような今にも壊れそうな建物が一軒建っているだけで、他には何もなかった。
途方にくれているとひとりの女性が声をかけてきた。Dと名乗るその女性は、ケープスマイスのポイントホープでの代理店をやっているとのこと。
「これからどこへ行くの?」
「海岸でキャンプしようと思ってます」
「南の海岸? それとも北の海岸?」
何も考えていなかったが、飛行機からずっと見えていたのが南の海岸だったし、南の方が明るい様な気がしたので南の海岸と答える。
「だったらホンダで送ってあげるわよ」
「HONDA」ホンダで作っている4輪のバイク状のATV(All Terrain Vehicle:全地形型車両、4輪バギー)という乗り物。日本語ではホンダだが、英語で言われると「ハンダ」と聞こえる。何のことやらわからず、この乗り物を「ハンドル」と呼んでいるのかと思ったほど、ヒアリングの力はなかった。

「あなた、いつまでこの町にいるの?」
「3日後の飛行機で帰ります」
「それじゃ3日後に迎えに来てあげるね」
町の南側の海岸、放置された白いアルミのボートの脇に降ろしてもらい、彼女と別れた。

テントを張り終えると、時間は既に夕方6時前。腹が減っているが、夕飯を作ろうにも真水がない。店があるに違いないと、水を買いに町へと向かう。
小さな町ゆえ、意外とあっけなく店は見つかったが、既に閉店しているらしい。偶然店から出てきた男に、水が欲しいと訴えると、店内に案内してもらえ、1ガロン(3.8リットル)の大きなボトルを手に入れることができた。

テントに戻り、アンカレジで買ったパンとインスタントスープで、テントの外で海を見ながら晩飯にした。
食事が済んでもまだ明るいので、自分のテントや付近に転がっている白骨化したアザラシのものらしき骨や、風景などの写真を撮りまくる。
今となっては珍しくも何ともない、海岸のあらゆるゴミが、当時は珍しくて仕方なかった。

深夜0時頃、そろそろ寝ようかと思っていると、海岸の砂利を踏みしめる音と子どもの声が聞こえてきた。
「ここで何してるの?」
「どこから来たの?」
「どうやって来たの?」
小学校3〜5年生くらいの男女数名がテントの前に現れ、質問の嵐。
子どもたちの顔つきは、日本人の子どもとほとんど一緒で、着ているものも日本人とそれほど変わりがないので、彼らが英語を喋っているの様子を見ると、まるで日本人の子どもが英語を喋っているようで、不思議な感じがした。

「私の名前、日本語だとどう書くの?」
耳で聞いただけでは、どんな名前かわからないので紙に英語で書いてもらい、それからカタカナで書いて上げると、大喜び。
そのうち飽きたのか、町の方へと帰って行った。

翌朝、ゆっくりと起き(朝寝をして)、朝食を食べてから、町を見物に行く。
町中は、木造の普通の家が立ち並ぶ。主な道路は舗装されていて、ピックアップトラックや、ワゴン車、ホンダが町中を走り回っている。
巨大な高床式の建物が町の中心に建っている。これは学校らしい。
町中で出会う人たちは、毛皮のフードのついた綺麗なジャケットを着ている女性やアンカレジあたりで売っていそうなありふれた防寒着を着ている人まで様々。

昨夜、水しか買わなかった店に行って見ることに。
「ポイントホープ・ネイティブストア」それが店の名前。
日本の田舎にある個人経営のちょっと大きめのスーパーという感じだろうか。野菜、冷凍食品、薬など、一通りのものは置いてある様子。エスキモーの食べ物、例えばアザラシなどが置いてあるかと思っていたが、そういうものは一切置いていなかった。

店内を一回りして、外へ出て、さてこれからどうしよう? と入口のところで考えていると、一人の女性が声をかけて来た。
簡単に自己紹介をして、レストランや喫茶店があるか聞いてみたが、そういうものは一切無いという。
話をしているうちに、一緒に昼ご飯を食べないか? と言っているらしいことに気がついた。
なぜ初対面で見ず知らずの自分に対してそんなことを言ってくれるのか謎だったが、悪い人でもなさそうなので着いて行って見ることにした。

ホンダの後ろに乗ってたどり着いた彼女の家の周りは、ゴミともなんとも言い難いものが散乱していて、雑然としている。家の中も雑然としていて、チワワが走り回っている。壁には大小様々な写真。これがエスキモーの家なんだろうか?
彼女の名前はE。今は一人暮らしをしているらしい。
「そういえば、あんたの名前はなんだっけ?」
と何度か聞かれる。初めて聞く日本語の名前では、中々覚えられないだろう
「シンゴだよ。音的にはビンゴに似てるよね」
「シンゴビンゴシンゴビンゴ… よし、覚えた」

Eが昼ご飯にご馳走してくれたのは冷凍食品のフライドチキンだった。
食後、彼女が海岸や昔の家のあるあたりで見付けたという、古い石の鏃(やじり)や、セイウチの牙製の古い道具などを見せてくれた。日本だと2000年以上前に使われていた石器だが、この付近では数百年ほど前まで使われていたものだそう。そんな博物館に入っていても良さそうな遺物が、Eの家の戸棚や袋に入れて保存されていた。

Eは午後から仕事だが、明日は休みなので、ホンダでどこかへ連れて行ってくれるという。そしてテントまで迎えに来てくれるとのこと。
昼食後、Eは再び仕事へ出かけて行ったので、町を少し歩いたあとテントへ戻ると、中が荒らされていて、日記や懐中電灯などがなくなっていた。
入り口に鍵をかけていたが、ベンチレーター(換気口)から手を突っ込まれてものを盗られたらしい。

落胆していると再び子どもたちがやってきたので、物を盗られたことを説明すると、何名かの名前を上げていたが、それが誰なのかわかるはずもない。
警察に言うのか? と聞かれたけれど、金目のものは盗られていないし、大した被害でもないので、言うつもりはなかった。ただ、この旅をずっと記録している日記だけは返して欲しかった(後でテントからさほど遠くない場所に落ちているのを見つけた)。

夜。昨晩同様、何度か子どもたちの襲来があった。
かなり太った15歳くらいの女の子が、大きなジップロックに入った大量の冷凍キイチゴをくれた。サーモンベリーというキイチゴだそう。よく見れば色といい形といい、サケの卵によく似ている。
サーモンベリーをくれた女の子の名前は聞いたはずなのに覚えていないし、顔もよく覚えていないので、今となってはあれが誰だったのか、知る由もなく、なぜ彼女がサーモンベリーをくれたのかは謎のままである。

夜も遅くなり、子ども相手で疲れたので寝袋に入って寝ようとしていると、海岸の砂利を踏みしめる音が聞こえてくた。
また、子どもが来たのか、今回は無視しよう、と思って寝たふりをしていた。しかし聞こえて来たのは大人の女性の声。
何事だろう、とテントから顔を出す。
「昨日から海岸のテントで寝ている外国人がいて、子どもたちにいじめられているって息子が言うから見に来たの」
多分、そんなことを言ったのだ、と思った。とにかくヒアリング力はない。
ふと見れば、傍にトラックが止まっている。気がつかなかったが、彼女はトラックでテントの脇にまで来ていたのだった。
「よかったらうちに来ない?」
そんな風に言われたような気がした。
「この間もイスラエルからのお客さんが来ていたし、遠慮しなくていいのよ」
と言ったらしい。
ここまでを理解するのに身振り手振りを交えて、かなり必死な状態だった。
トラックの荷台にテントや荷物を放り込み、彼女の家に向かった。

彼女の名前はe、家には旦那さんのPと昼間、海岸で遊んだ男の子が2人リビングで毛布にくるまってテレビを見ていた。そして3歳くらいの女の子と1歳くらいの赤ちゃん。
エスキモーの家とはいえ、特に変わった家ではなく、普通のアメリカ人の家といった感じ。いや普通のアメリカ人の家を知らないので、何を持って普通と言っていいのかわからない。
大きなバスルームにあるトイレはバケツに便座が付いたものだった。それくらいがいわゆる普通の家と違う思われるところ。

英和和英辞典を片手に身振り手振りで話しをした。
何歳に見えるか、と言うので、中学生くらいの男の子が2人もいるのだから、40歳くらいか、と思ったら、1人は息子Hの友だちだった。そしてeとPの年齢は30代前半。自分と10歳も離れていなかった。
しかし、いずれこの夫婦を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼ぶことになろうとは。そして、当時中学生だったHのことを兄弟と呼び、彼が結婚して住んでいる家に居候することになろうとは思いもしなかった。

寝るために貸してもらった息子の部屋は、壁も天井も、プロバスケットボール選手のポスターで埋め尽くされていた。中でも多いのはシカゴブルズのマイケル・ジョーダン。
マイケル・ジョーダンに見つめられ、北側の窓から射し込む太陽の光を浴びながら眠りについた。

翌日、eとPに昔の町があった空港の西側へと連れて行ってもらった。クジラのあごの骨で骨組みを作り、芝土で覆った家。木造の建物の周りに芝土を積み上げて断熱材代わりににしている家。
1970年代に高潮による被害を避けるため、現在の町に集団移住してしまったので、ここに住んでいる人はいないという。

家に戻って写真を見せてもらったりしながらくつろいでいると、Eがやってきた。
「やっと見つけたわよ。探したんだからね」
昨日の約束を忘れておらず、町中を探し回ってくれていたようだった。
「暖かいジャケット持ってる?」
eが言う。
その時、自分が着ていたのは、薄い雨ガッパで保温性はない。
Hが着ているというエスキモーのジャケットを出して来て貸してくれた。
ファスナーの無いプルオーバー式の毛皮(羊)のジャケットで、首周りが少々小さくて首を出すのは大変だったが、着てしまえば特に問題はなさそう。
そのジャケットを着て、どこへ行くのかわからないまま、Eのホンダの後ろに乗って出発した。

海岸の砂利道を全速で走り続けるE。振り落とされたら首の骨が折れて死んでしまうな、そんなことを考えてしまうくらいスピードを出しているように当時は感じていた。しかし、当時のホンダは排気量が小さく、さらに二人乗りだったので、それほどスピードは出ていなかったのではないかと思う。
ポイントホープに来るときに、飛行機から見ていた海岸線を逆方向へと走った。右手に海。左手にはツンドラの丘や湖が現れる。

途中「ピングッチャック」と呼ばれる場所で休憩。
海岸段丘を上がってすぐの場所には、古い建物の跡とおぼしきクジラの骨が地面から突き出していた(今は段丘が崩れてしまい、住居跡はもうない)。
段丘の上のツンドラを歩いていると、USGS(米国地質調査所)が地図を作る際に使用している測量用の杭が目印として地面に突き刺してある。
「ここも誰かの土地になのよねえ」
目印を見ながら、つぶやくように言うE。
エスキモーが自由に猟をしていた土地が、誰かに「杭」を打たれ、彼らのものではなくなってしまい嘆いている、そんな風に感じていた。
しかし、ポイントホープ周辺の海岸には、かなり密に所有権がある(これを知ったのは、つい最近のこと)。あのとき、Eはこの場所がアメリカの土地になってしまったことを嘆いていたのではなく「ここもポイントホープの誰かの持ち物なのよね」と、自分に言い聞かせるようつぶやいていただけだったのだと思う。

さらに東へ向けて進んで行くと、彼方に見えていた断崖絶壁がどんどん近づいて来る。
海岸にホンダを止めて、段丘をのぼると、北に向かって広がるツンドラの先に、気持ち良さそうなツンドラの丘陵地が広がっている。
「あそこに丘がみえるでしょう? あの丘の上に気持ちのよいトレイルがあるから連れて行ってあげたいんだけど、ガソリンが無いから今回はちょっと無理ねえ」

そこから数100m走ると、きれいな水が海へと流れ込んでいる場所にたどり着いた。
目の前には、巨大な崖。
 イスックと呼ばれるその場所は、トンプソン岬の丘へと上がって行くトレイルの入口でもあった。
人々はこのトレイルを通って、トンプソン岬の向こうへと獲物を探しに行くのだそう。

「何か容器を持ってくればよかったねえ」
イスックの水は美味しい水なので、ポイントホープの人たちは、わざわざここまで汲みに来るのだそう。
(当時、既にポイントホープに水道は普及していたものの、水源はツンドラの池で、その水を濾過消毒して使っているため、それほど美味しい水ではない。各家庭に浄水器が普及する10年ほど前までは、タンクやバケツを持ってここまで水を汲みに来たり、雨水を飲用に使っていたが、今では浄水器が普及したので、わざわざ水を汲みに来ることはなくなった。)

イスックにて。今では信じられないくらい細いE
流れの脇には、誰かが火をおこした跡の横にカリブーのあごの骨の一部が落ちていた。こんなどうでも良さげなゴミの様な骨でさえ当時は珍しく、Eに見つからないように、こっそりとポケットへ入れた。いつかまた、この場所に帰って来ようと思いながら(その後、その骨はゴミになった)。

流木に腰を下ろして、煙草を吸いながら、話をしたが、覚えていることは「馬」と「ウーマ」について。ウーマとは自分の配偶者と同じ名前の人のこと。日本語で同じ発音だと「馬」のことだよ、と。

振り落とされる恐怖を感じながら、 町に戻り、ポイントホープで最も特徴的な場所、墓地に案内してもらった。
墓地はクジラのあごの骨で周りを囲まれ、その中にいくつもの十字架が立っている。アラスカのエスキモーを紹介する本にはよく出て来る場所だ。
十字架の中に、新しくて大きい二つの十字架がひとつになったものがあった。
「これは私の双子の娘の墓」
 つい最近、ホンダの事故で亡くなったのだという。
日本語でさえ、そんなときにどのような言葉をかけてよいのかわからないのに、英語力の無い当時は、本当に何も言えなかった。
大声で笑い、冗談ばかり言っているEからは、想像もつかなかったが、そんなことがあったとは。

家まで送ってもらった別れ際、太陽の位置を見ながら
「今は5時20分くらいかな」
というE。
腕時計を見るとまさに5時20分。
エスキモーってすごいな、いやEがすごいんだろうか。

eの旦那さんPとともに、彼のお父さん(育ての父)とお母さんの家に。家に入ると、何か独特の匂いがしていた。今になって思えば、それはシールオイルの匂い。
最近の若い人の家では、シールオイルの匂いを嗅ぐことはほとんどなくなってしまっているが、今でも、お年寄りの家のドアを開けるとシールオイルの匂いがすることがあり、何となくほっとする。
Pのお父さんは、クジラ猟のキャプテンをしているという。クジラに撃ち込む銛を見せてもらった。太い木の柄に真鍮の先端部。非常に重く、よくこんなものを投げられるものだと思う。
Pに、父親を継いでキャプテンになるのか?と聞くと、はにかみながら「まだわからない」答えていたが、それから10年ほどでPはキャプテンになった。

翌日はポイントホープ最終日。午後の飛行機でコツビューへと戻る。
学校で働いているというeに学校へ連れて行ってもらった。
教室へ入ると、海岸のテントへ遊びに来た子どもたちの姿が見える。
「日本の話をして」
と先生に言われるが、英語は聞くのも喋るのも悲しいくらいできない。どうしようかと思っていると、子どもの一人が
「ぼくの名前、日本語だとどうなるの?」
というので、黒板に名前を書いてもらい、それをカタカナに。先生的には問題があるかもしれないけれど、子どもには喜んでもらえた。

いよいよポイントホープを去る時間が近づいて来た。
eが別の場所で仕事をしているEを探し出してくれ、お別れのハグをする。
どうでもよいことだが、この頃のハグは、慣れていなくて腰が引けていた。
「また、遊びにおいで」
eと腰の引けたハグをして飛行機に乗り込む。

離陸した飛行機は、Eと走った海岸の上を飛んで行く。
様々な人たちとの出会いに感謝しながら、感傷的な気分になって行く。来年もまた、この町の人たちに会いに来よう、そう思った。

自分がこのあと、20年以上に渡って毎年のようにポイントホープに通うようになるとは、そのときは思いもしなかった。


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