昔、今は亡き友人ヘンリーが日本人に炊飯器をもらったというのは、このときのことかもしれない。
1976年4月30日、グリーンランドからアラスカのコツビューを犬ぞりで目指していた植村直己がポイントホープに立ち寄った。
そのときの様子は彼の著書「北極圏12,000キロ」に記されている。
クジラの猟の真っ最中の時期。彼が到着と同時にクジラが捕れた。
当時、捕鯨組のキャプテンの奥さんだったエイリーン(故人)は生前
「あの日本人はセイウチの皮を毛ごと食べちゃったのよ、お腹にいいとか言いながら」
と言っていた。
セイウチの皮は「コーク」と呼ばれ、普通は茹でてから、毛の生えた表皮をナイフで削ぎ落として食べる。ゼラチン質でぷりぷりとしていて茹でたてでも、冷めてからでもおいしい。セイウチの毛が、本当にお腹に良いのかどうかはわからない。
「北極圏12,000キロ」にセイウチの肉を食べさせてもらったと言う記述がある。これはエイリーン言っていたセイウチの皮のことかもしれない。
(余談その1)
中学生の頃、文春文庫の植村直己の著作を愛読していて、繰り返し何度も何度も読みふけっていた。もちろん「北極圏12,000キロ」も。
クジラ組の親方と猟に参加したこと。恐らく、この親方とは前述のエイリーンの旦那さん、ジョン・ティングックのことだろう。
ホッキョククジラことを「ガジャロワ」と呼ぶと書かれている。ところがポイントホープで、一度も「ガジャロワ」という単語を聞いたことが無い。もしかしたら自分が知らないだけなのかもしれないが。
コツビューから、初めてポイントホープを訪れることになるきっかけは、この本だった。コツビュー周辺の町で、唯一覚えていた町の名前が「ポイントホープ」だったのだ。
P曰く、
「ナオミの犬は大きかったよな」
植村直己がグリーンランドから連れて来たそり犬は、ポイントホープで使われていた犬よりもはるかに大きかった。
その頃ポイントホープでは、犬ぞりは廃れつつりあり、犬を飼っている家も多かったが、スノーモービルが普及しつつある時期だった。
「海岸に行ったら、今時珍しい犬ぞりがあったんで、なんだろうって思ったら、それがナオミだったんだよね」
とR。
今では、覚えている人も少なくなってしまったが、当時のポイントホープでは、グリーンランドから犬ぞりでやって来た日本人の存在は、とても大きなニュースだったのだろう。
日本への短期の旅行から帰って来たばかりのQは(交換留学のようなものだったらしい) 、日本語で話しかけたところ「上手な日本語だね」と褒められたそうだ。
「あの犬たちは巨大で怖かったな」
とも。
植村直己が滞在中の3日間で、クジラが8頭も捕れたと言う。クジラの猟期の2ヶ月間に5頭も捕れると大猟と言っている昨今と比べると、信じられないような話である。
それよりも解体のことを考えると、うんざりしそうだ。男たちは数日間、まったく寝ずに解体作業をしていたのではないだろうか。
以前、クジラ組のキャプテンを長く続けているJ(以下に出てくるJとは別人)と話をしていたとき、クジラが一度に何頭も捕れた年があり、海岸近くの氷の上はマクタック(クジラの皮)だらけになってしまったことがあったと言っていた。
普段だと自分の取り分のマクタックは大事に家に持ち帰るのだが、そのときはあまりに潤沢にマクタックがあったので、海岸に転がっているマクタックは、欲しい人が好きなように持ち帰っていたそうだ。
Jが言っていたのは、この年の話だったのかもしれない。
(余談その2)
先日、板橋区立「植村冒険館」へ北極圏12,000キロで使われていた犬ぞりが展示されていたので見に行ったところ、ポイントホープの写真が数枚展示してあった。
その中に、植村直己と一緒に画面に収まっている友人Pと思しき姿があった。今や50代のPがまだ10代だった頃の姿。
「ナオミと一緒にクジラの猟をしたんだよ」と言っていたことが、改めて事実だと知らされた写真だった。
自分が高校生のとき、植村直己がマッキンレーで遭難した。「冒険とは生きて帰ってくることだ」といい続けていた彼が山で行方不明となった。
それ以降、社会人となってアラスカへ行くようになるまで、植村直己とはなんとなく距離を置いて過ごしていた。
アンカレジで知り合ったアメリカ人の友人は、植村直己が遭難した際、捜索活動に協力をしたそうだ。その彼は
「あれは遭難ではなく、形を変えた自殺だろう」
と言っていた。
登山や探検の失敗が重なり、マスコミに追い詰められた責任感の強い植村直己は、自分のいる場所がないと感じるようになり、 山へ逃げてしまったのだろう、と。
その友人と話をしているうちに、遭難以降、ずっとどこかに引っかかっていた植村直己に対する距離感はなくなっていた。
星野道夫もクジラの猟を撮影するために、ポイントホープに滞在している。
当時、彼が居候していたいたのはJの家。ポイントホープの将来を担う若者として、Jの写真が彼の著作にでかでかと出ている。
当時、星野道夫の名前はそれほど知られておらず、日本人の若者が写真を撮りに来ている、程度に思っていたようだ。
ある日、PとJが話をしていた。
「え? ミチオってそんなに有名な写真家だったのか?」
(ミチオ:発音は「ミシオ」に近い)
「そうらしいよ。日本じゃかなり有名だったらしい」
「じゃ、相当金持ってたんじゃないのか? でも、うちには食費も何も入れてくれなかったな」
「シンゴでさえ、食費ぐらい出してるぜ」
いや、毎年長期滞在していて、毎年ただ飯食っているわけにはいかないし。
「ミチオの部屋さ、すげー散らかってて、片付けろって言うと、ふらっといなくなっちゃうんだよ」
申し訳ない。自分もいつも部屋は散らかしている。日本人は片付けない人たちだと思われていないことを望む。
「ミチオが作るチキンカレーはうまかったよな」
彼の著作や、奥さんの話によれば、星野道夫は、自分だけのこだわりのレシピを持っていたようで、特にうまいカレーを作っていたようだ。
自分が居候している家の家族もカレーが好きで、毎日でもカレーでいいと、言っているほど。市販のカレールーを使って適当に作るカレーなのに結構評判は良い。ただ、日本で同じ物を作っても、特に感動があるカレーではない。
星野道夫以降も、クジラ猟を取材に来たテレビ朝日や(滞在期間が短すぎて猟の取材はできず)、TBS「世界不思議発見」の取材班、NHKの取材班などがやって来た。
普段は温厚でもの静かで、のんびりした感じのP(前述のPとは別人)が取材班にガイドとして雇われた際には、顎で日本人のディレクターたちを使っていた。
女性タレントのガイド役としてテレビに映っていたPは、これまた普段は見られないような、機敏な動きを見せていた。
Pのあまりの変化に、画面を見ながら笑ってしまったのだった。
テレビ取材班が来ている際に、自分がその場にいることがある。
ディレクターに役に立ちそうも無い助言をすることはあれ(ホンダのレンタル料の相場なんぞ知らない)、彼らに取材をされることも無く、平穏に過ごしている(テレビに出ても喋ることはないし、喋れない)。
今のところ、テレビで放送されるポイントホープの情報は一過性で、記録としてはほとんど残らないのが現状なので(ビデオ化もないし再放送もされない)、多少の勘違いや間違いも笑っていられる。
ある程度残る媒体で、自分の思い込み、勘違い(あるいは間違い)をそのまま発表し、そのまま受け入れられてしまって、こりゃいかんだろ、というものがあるのも事実。
こういうのを見ていると、自分の家に土足で入り込まれた挙句、自分の家族について、世間に向けて好き放題言われているような気分になってしまう。
ポイントホープについて、何か書いたり作ったりする際は、一声かけていただければ、中身の確認くらいできると思いますよ。おそらくポイントホープ滞在期間が一番長い日本人なので、他の人よりは、多少ポイントホープのことを知っていると思うから。
※このページは敬称を略しております。
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