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2021/01/11

フィルム

 アラスカへ通い始めた頃はデジタルカメラなんてものはなくて、毎回、50本ほどのフィルムを持って出かけ、帰国して現像が終わるまで、どんな画像が撮れているのか、不安と期待でドキドキしていたものです。

1本のフィルムで36枚しか撮れないので、1枚1枚を丁寧に撮っていたためか、意外と良い写真がたくさんあるのです。
今、デジカメでシャッターを押しまくっている写真は、まさに「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的な写真になってしまっています。

以前はフィルムスキャナーを持っていて、思い出したようにフィルムをスキャンして印刷したりしていたのですが、読み込みにえらく時間がかかり、読み取った画像の色合いが微妙、 ピントも微妙、フィルムにゴミがついてしまったり、処理に時間がかかるため、めったに使わなくなってしまい、最終的には処分してしまいました。

さて
カメラのレンズの先端に取り付けて、フィルムをコピーするためのアダプターなるものを売っていることは知っておりました。なんとなく、試さないまま、何年も経過。
よく考えてみると、必要な機材はほぼ揃っているし、古くからのコピーアダプターなら、それほど高いものではないので、試してみて損はなかろうと、重い腰を上げたのでした。

とりあえず、2001年のフィルムの一部を読み込んでみました。

ウミアックでクジラを追う
この年、初めて実際にクジラの猟に参加。
クジラがはるか彼方に現れ、ウミアックがクジラを追い始める。寒さを忘れ、シャッター音でさえクジラに聞こえてしまうのではないかというくらいの緊迫感。
ドキドキしながら猟の行方を追い続けたことなど、さまざまな思い出が蘇ってきます。


クジラ祭りにて

クジラ祭りへの参加は2回目ですが、この年は主催者側では無かったこと、2回目ということもあり、ちょっと余裕を持って写真を撮れたのだと思います。
この写真は、自分にとって、一番好きな写真の一つ。
お年寄りたちはすでに他界してしまいましたが、子供たちは成長し、既に母親となっている子もいることでしょう。
右端の女の子は、現在25歳だそう。自分の幼い頃の写真を見ることができたと、たいそう喜んでもらえました。


アヴァラックを配るキャプテン

この人は、クジラ組のキャプテン、Henry Nashuukpukという方。
ポイントホープへ通い始めた頃から、夫婦でとてもよくしてくれて、食事をご馳走してくれたり、猟の話をしてくれたり。孫や子どもたちには厳しい感じでしたが、客人には奥さんとともに、とても優しく接してくれました。大きな声で喋り、朗らかに笑う陽気な奥さんは、この数年前に他界。
この年が、彼にとっての最後のクジラとなりました。この後、キャプテンを引退。
数年後、彼も奥さんの元へ旅立ってしまいました。
彼が亡くなるひと月ほど前。日本に帰る前に、彼の元に挨拶へ行きました。
日本食が食べてみたいな、と言うので
「来年、日本の食べ物を作ってあげるから、必ず元気になってね」

末期の癌で、自宅で最後を過ごすために帰ってきていた彼。
翌年会えることはない、ということはわかっていました。
彼の家を出てから、自分は何を言ってるんだろうと、思い切り落ち込んだことを覚えています。

2018/08/02

2018年カグロック雑感

5月終わりころ、スィガロック(天然地下冷凍庫)からマクタックを引っ張り出し、カグロックの準備が始まる。
5月31日午後、元キャプテンから呼び出しがあり、彼の家(部屋が広いので作業をしやすい)のリビング、キッチンに大きなビニールシートを敷きつめ、肉を切るためのベニア板やダンボールを運び込む。キャプテンは仕事に出ていていない。
元キャプテンと若いクルーと一緒に作業をして、ミキアック作りの準備完了。
キャプテン仕事より帰宅
「明日の準備しなくちゃなあ」
「さっきTとやって終わってるよ」
「あ、そう」
なんだかやる気ないな。

6月1日、13時、に集合しミキアックを作り始める。キャプテンは仕事で留守。ミキアック作りの達人、元キャプテン奥さんを中心に作業は進む。
17時過ぎ、仕事帰りのキャプテンがちょっと顔を出すものの、そのまま家に帰ってしまう。
「キャプテンはどこ行ったんだ?」
一通り終了し、晩飯を食べながらつぶやくと
「そうなんだよなあ」
と元キャプテン。
1週間ほど前に発作で一度倒れたキャプテン妻は、無理をしないよう言い聞かされていたが結構頑張っていた。
81歳のIばあちゃんも休みつつも延々と作業を続けていた。

日曜日、ベッドルームから大ゲンカの声。カグロックまであと1週間しかないのに何をやっているんだか。いたたまれたくなり、やることもないのに物置へ避難。
ミキアック作り、ほとんど手伝ってもらえないんだもの、奥さん怒るよなあ。
しばらくして家に戻ると、どうにか仲直りはした様子。
娘曰く、たまにこういう喧嘩するらしい。

家主が仕事中に、自分にできることはじわじわと進める。
スィクパン(薪とともに脂肪を燃やすストーブ)用の古いストーブ、網が剥がれてひん曲がっていたので溶接してみる。自分一人でやる溶接は初めて。調整に失敗して網を焼き切ったりしたものの、どうにか修理完了。
そのストーブ用に集めてきた薪用の流木を電動のこぎりで切りそろえる。
アバラック切断用の大型ナイフの柄についた汚れを落とし、刃を研ぎあげる。
冷凍庫に切り分けて保管してあったアバラック(尾びれ)を5日ほど前に引っ張り出す。隣の家の物置に置き、表面に霜が付いたり結露で濡れたりするので朝晩各1回両面を拭く。
ユーカック(温かい飲み物)用に大きなバケツ2つに雪を集めてくる。溶けたら雪を追加。
などなど。

本番数日前
「だんだんナーヴァスになってきてるだろう?」
「そうだなあ」
キャプテンになって初めてクジラを捕った。さらにこの年最初のクジラを捕っているので、カグロックの際は、まず最初に話をしなくてはならない。
「喋ること紙に書いといたらどうだ?」
絶対にやらないとは思っているけれど、一応助言。
アバラックを配るキャプテン

そして本番。
キャプテン、思いの外しっかりと、そして堂々と、神に対して、人々に対して、感謝の言葉を語ったのだった。

アバラックを配っているときに「シンゴ!」と名前だけ呼ばれた。
アバラックを受け取り、ハグしつつ「ありがとう」というと「愛してるぜ」「オレもだ」。
一瞬涙が出そうになった。

3日目の夜。体育館での踊りと肉やマクタックの配布が終わり、車へ向かう道すがら
「ありがとう、H」
というと、なんだか都合が悪そうな、はにかんだような笑顔をよこしただけだった。

結果的にほぼ元キャプテン夫妻の主導で進んだカグロックだった。
学ぶべきことはまだまだたくさんあるはず。
まあそのうち独り立ちできるだろうとは思うけれど。
応援してるぜ。

2015/11/20

転覆事故

2008年5月。
その年のクジラ猟のためにポイントホープへ入って数日後のこと。
その日は何度もクジラが沖合に現れ、その度にウミアックでクジラを追っていた。
ウミアックに乗れる人数は8名。我々のクルーは10名ほどいたため、自分は氷の上で双眼鏡を覗いてウミアックとクジラの行方を追い続けていた。
クジラは氷のほうに近づいて来て、どうやら氷の下へ逃げ込んだようだ。
数艘のウミアックが氷の端、キャンプのすぐ横へ戻ってきて、沖を向いて並び、再びクジラが浮上をするのを待つこととなった。

我々のキャンプのすぐ横にウミアックが集まってきたので、カメラをぶら下げてそばまで写真を撮りに行く。
目の前にはクーヌックのウミアック。東のほう、ナシュクパックのウミアックの向こうに我々のウミアックも見える。
写真を撮りつつ、クジラが浮き上がるのを待つ。

突然、「ドン」という低い音とともに、足下に氷の振動を感じた。
「なんだ? 地震か? え? 氷の上だぞ?」
そう思っていると、いきなりクーヌックのウミアックが水面から持ち上がった。
何事だろう。とっさのことで全く何が起きているのかわからなかった。
目の前のウミアックは転覆し、乗っていた男たちが海に投げ出される。

助けなくちゃ、そう思うものの、身体が動かない。どうしたらいいんだろう? そう思いながら手元を見ると、カメラを握りしめている。写真なんて撮っている場合ではないが、とりあえず写真を撮ろう。
何度かシャッターを切る(結局2枚しか撮っていなかった)。
助けなくちゃ、もう一度そう思ったものの、相手は水の中。カメラを置いて、走り出そうとしたが、水温0度の水の中の人たちを簡単に助けることはできない。
何もできずに立ちすくんでいると、 すぐ隣にいたレーンのウミアックが漕ぎより、男たちをウミアックに引き上げはじめている。

我々のウミアックも近づいてきて、キャプテンがこちらに向かって何か叫んでいるが、遠いのと興奮で何を言っているのか聞き取れない。
あとで聞いたところ、メインの氷にクラックが入ったと思い、後ろへ下がれと叫んでいたとのこと。

事故現場から一番近いキャンプは我々のキャンプ。男たちはそこへ引き上げられるようだ。
海に落ちた男たちを暖めるため、ソリの上に置いてあった大型のテント「アークティックオーブン」を組み立て、ガスコンロを入れて、内部を暖める。
引き上げられた男たちの濡れたジャケットや服を脱がして、テントの中へと押し込む。
男たちは信じられないくらい大きく震えていて、会話もままならないほどだった。
しばらくすると、どこからとも無く着替えが届き、身体が暖まった男たちを町へと送り返した。

実際何が起きていたのか。
水面下にあった大きな氷の塊が、突然クーヌックのウミアックの真下から浮き上がり、その氷に乗り上げたウミアックが転覆してしまったのだった。
他のウミアックでは、クジラが再浮上したものとおもい、一斉にパドルを漕ぎ始めたそうだ。

上段:転覆数分前。 下段:転覆時。
幸いなことに怪我人は無く、ウミアックから落ちた銛などの道具類もほとんど回収された。

海に落ちた男たちが 町に戻って数時間。町からソリを引いたスノーモービルがやってきた。
「事故に合った男たちは? 暖かい毛布と着替えを持ってきたんだが?」
サーチ・アンド・レスキュー(ボランティアの救難隊)がやってきた。
「とっくの昔に町に帰ったよ」
一体、どんな連絡網になっていたのだろう?

2015/01/21

さようなら

2015年1月14日、ポイントホープで最初に友だちになった大好きなエミリーが亡くなった。63歳、若すぎる死だ。

彼女は双子の娘を一度に亡くすという、とても辛い思いもしていた。
その二人のことがあったのだろう。50近くなって、また子どもが育てたいからと、養子をもらって育てていた。
今、14歳のその子は、自律したしっかりした女性に育っている。

「勉強をするのに遅すぎるってことは無いのよ」と言いながら、50歳を過ぎてから、大学の勉強を始め、毎年何らかの単位を取っていた。

一緒に暮らしていたボーイフレンドのビリーは、トリンギット・インディアン。彼もまたエミリーと同じように巨体で、二人の漫才のようなやり取りを聞いているのは、とても楽しかった。

大きな声、巨体を揺らしながら、忙しく働いていたエミリー。
他人に対して厳しいことを言うけれど、それは優しさの現れ。
遠くにいても、怒鳴り散らしたり、喜んだりする、その大きな声で、エミリーがそこにいることはすぐわかった。

子どもの頃から忙しく、働き詰めで、エスキモーらしく生きて来た。

そしてあっけなくいなくなってしまった。

さようなら、エミリー。ありがとう、エミリー。
あなたがいなかったら、ぼくはポイントホープへ通うことはなかったかもしれない。
2014年6月、クジラ祭りにて。ガンの治療中で相当弱って
いたにもかかわらず、何事もないように作業をしていた。

妹のアアナ(右と)(2014年6月)

1993年、初めてあった頃

アンカレジでエミリーのお別れ会のその日、 ぼくのアラスカの妹、ヒラリーに女の子どもが生まれた。
その子は、エミリーのエスキモー名Aumaqpaqを引き継いだ。
おかえり、Aumaqpaq。

2014/02/18

ジョー

「おう、シンゴ、今年も来たんだな」
「あ、うん。ええっと.。。。」
聞いたことのある声、見たことのある風貌、だけど誰だか思い出せない。
「何だお前、オレが誰かわからないのか? ジョー、ジョー・フランクソンだよ」
「なんだ、ジョーか、久しぶり。サングラスして帽子なんてかぶってるから誰か分からなかったよ」
5月、氷の上でクジラを引き上げる準備をしているときのこと。80歳近くなっても、今も現役のクジラ猟のキャプテンのジョー。
クジラを捕った直後のジョー
普段、サングラスもしていないし帽子もかぶっていないので、本当に誰だか分からなかった。

数日後、そのジョーのクルーがクジラを捕ったと連絡が入った。小さなクジラだったので、現場にたどり着いたときには、クジラは既に氷の上。
キャプテンのジョーにおめでとうと言ってから、解体の輪に加わる。 我々のニギャック(分け前)分を切り取り、ついでに他のクルーの分も手伝って、解体はあっという間に終了した。

その年のカグロック(クジラ祭り)2日目。
ジョーが人々の名前を呼びながら、クジラの尾びれ「アヴァラック」を配っているところ

を写真を撮りながら、うろうろしていた。
アヴァラックを切るクルーを見守るジョー
「シンゴー、シンゴいるか? シンゴ・キニヴァック」
ジョーが呼んでいる。
「キニヴァック」は自分の所属するクジラ組のキャプテンのラストネーム。一応、自分はキャプテンの息子ということになっているので、間違えではない(と思う)。
ジョーがこちらを見ながら、いたずらっぽい目で笑っている。周りの人たちも笑っている。
「ありがとう、ジョー」
アヴァラックを受け取り、ジョーとハグをする。

ジョーはこの年を最後に、キャプテンを後任に譲った。しかし翌年も積極的に猟には出続けていた。

2014年、ジョーがアンカレジの病院へ入院したと聞いた。脳溢血だったらしい。
娘のHが時々、Facebookにジョーとのやり取りを載せていたので、まだ回復の見込みはあるものと思っていた。
しかし、次第にHの書き込みは減っていった。

ある暖かい冬の日の午後、打合せ帰りに電車に乗って携帯電話でFacebookを見ていた。誰かが元気な頃のジョーの写真をアップし「R.I.P.」と記していた。
「Rest in Peace」日本語にすれば「ご冥福をお祈りいたします」

また、ポイントホープの歴史を知る一人がこの世の中からいなくなってしまった。なんと寂しいことだろう。
ジョー、まさかこんなにあっけなく行ってしまうとは思わなかったよ。

2013/05/23

イライジャ

クジラ猟の元キャプテンで、牧師をしていたイライジャが亡くなった。
昨年のカグロック(クジラ祭り)の際、みんなの前で話をしていたのを聞いたのが、自分にとって最後の説教だった。

この町のキャプテンのほとんどは、キャプテン引退後数年で人生も引退してしまう。 色々な意味で引き際がわかっているのかもしれない。

イラジじゃの葬儀にて、歌う人たち
教会へ行くと、白い聖衣をまとったイライジャが聖書を片手に、わかりやすく説教をしていた。
何か行事の時は、必ず最初に祈りを捧げるのもイライジャだった。

でも、今日は違った。
説教をしているはずのイライジャは 棺の中に横たわり、代わりによその町からやって来た白人の牧師が何か話をしていた。

トラックに乗せられた棺
以前、海岸でクジラ猟の準備をしているとき、 いつの間にか傍らにイライジャが立っていたことがあった。
「どこからかミキアックの匂いがするな」
聞いたことのある声がするので振り返ると、満面の笑みのイライジャ。
ミキアックとは、クジラの肉とマクタック(皮の部分)などを使って作った食べ物の名前。そのときはクジラが捕れる前なので、ミキアックがあるわけもない。
そう、自分のエスキモー名はミキアック。彼はいつも「ミキアック」と呼んでくれていた。

この2ヶ月、ポイントホープではイライジャを含めて2名の牧師が亡くなった。
墓地へ向かう車列
もう一人の亡くなった牧師、ウィルフォードも魅力的な人だった。特に彼のエスキモーダンスは、見る人を笑顔にする、とても良いダンスだった。
イライジャも夫婦で、素敵なダンスを踊っていた。

人は年を取り、人生を全うしてこの世から去って行く。それはわかっている。でも、いつもそこに立っているはずの人がいない、というのはとてつもなく寂しいものだ。

2013/01/22

ポイントホープの日本人(2)

かつて、1960年代に明治大学の調査団がアラスカ各地の先住民の集落を尋ね、その研究成果を発表している。調査団はポイントホープにも滞在していて、当時の暮らし、猟についてを記録している。
昔、今は亡き友人ヘンリーが日本人に炊飯器をもらったというのは、このときのことかもしれない。

1976年4月30日、グリーンランドからアラスカのコツビューを犬ぞりで目指していた植村直己がポイントホープに立ち寄った。
そのときの様子は彼の著書「北極圏12,000キロ」に記されている。

クジラの猟の真っ最中の時期。彼が到着と同時にクジラが捕れた。
当時、捕鯨組のキャプテンの奥さんだったエイリーン(故人)は生前
「あの日本人はセイウチの皮を毛ごと食べちゃったのよ、お腹にいいとか言いながら」
と言っていた。
セイウチの皮は「コーク」と呼ばれ、普通は茹でてから、毛の生えた表皮をナイフで削ぎ落として食べる。ゼラチン質でぷりぷりとしていて茹でたてでも、冷めてからでもおいしい。セイウチの毛が、本当にお腹に良いのかどうかはわからない。
 「北極圏12,000キロ」にセイウチの肉を食べさせてもらったと言う記述がある。これはエイリーン言っていたセイウチの皮のことかもしれない。


(余談その1)
中学生の頃、文春文庫の植村直己の著作を愛読していて、繰り返し何度も何度も読みふけっていた。もちろん「北極圏12,000キロ」も。 
クジラ組の親方と猟に参加したこと。恐らく、この親方とは前述のエイリーンの旦那さん、ジョン・ティングックのことだろう。
ホッキョククジラことを「ガジャロワ」と呼ぶと書かれている。ところがポイントホープで、一度も「ガジャロワ」という単語を聞いたことが無い。もしかしたら自分が知らないだけなのかもしれないが。

コツビューから、初めてポイントホープを訪れることになるきっかけは、この本だった。コツビュー周辺の町で、唯一覚えていた町の名前が「ポイントホープ」だったのだ。

P曰く、
「ナオミの犬は大きかったよな」
植村直己がグリーンランドから連れて来たそり犬は、ポイントホープで使われていた犬よりもはるかに大きかった。
その頃ポイントホープでは、犬ぞりは廃れつつりあり、犬を飼っている家も多かったが、スノーモービルが普及しつつある時期だった。
「海岸に行ったら、今時珍しい犬ぞりがあったんで、なんだろうって思ったら、それがナオミだったんだよね」
とR。
 今では、覚えている人も少なくなってしまったが、当時のポイントホープでは、グリーンランドから犬ぞりでやって来た日本人の存在は、とても大きなニュースだったのだろう。
日本への短期の旅行から帰って来たばかりのQは(交換留学のようなものだったらしい) 、日本語で話しかけたところ「上手な日本語だね」と褒められたそうだ。
「あの犬たちは巨大で怖かったな」
 とも。

植村直己が滞在中の3日間で、クジラが8頭も捕れたと言う。クジラの猟期の2ヶ月間に5頭も捕れると大猟と言っている昨今と比べると、信じられないような話である。
それよりも解体のことを考えると、うんざりしそうだ。男たちは数日間、まったく寝ずに解体作業をしていたのではないだろうか。
以前、クジラ組のキャプテンを長く続けているJ(以下に出てくるJとは別人)と話をしていたとき、クジラが一度に何頭も捕れた年があり、海岸近くの氷の上はマクタック(クジラの皮)だらけになってしまったことがあったと言っていた。
普段だと自分の取り分のマクタックは大事に家に持ち帰るのだが、そのときはあまりに潤沢にマクタックがあったので、海岸に転がっているマクタックは、欲しい人が好きなように持ち帰っていたそうだ。
Jが言っていたのは、この年の話だったのかもしれない。

(余談その2)
先日、板橋区立「植村冒険館」へ北極圏12,000キロで使われていた犬ぞりが展示されていたので見に行ったところ、ポイントホープの写真が数枚展示してあった。
その中に、植村直己と一緒に画面に収まっている友人Pと思しき姿があった。今や50代のPがまだ10代だった頃の姿。
「ナオミと一緒にクジラの猟をしたんだよ」と言っていたことが、改めて事実だと知らされた写真だった。

自分が高校生のとき、植村直己がマッキンレーで遭難した。「冒険とは生きて帰ってくることだ」といい続けていた彼が山で行方不明となった。
それ以降、社会人となってアラスカへ行くようになるまで、植村直己とはなんとなく距離を置いて過ごしていた。
アンカレジで知り合ったアメリカ人の友人は、植村直己が遭難した際、捜索活動に協力をしたそうだ。その彼は
「あれは遭難ではなく、形を変えた自殺だろう」 
 と言っていた。
登山や探検の失敗が重なり、マスコミに追い詰められた責任感の強い植村直己は、自分のいる場所がないと感じるようになり、 山へ逃げてしまったのだろう、と。
その友人と話をしているうちに、遭難以降、ずっとどこかに引っかかっていた植村直己に対する距離感はなくなっていた。

星野道夫もクジラの猟を撮影するために、ポイントホープに滞在している。
当時、彼が居候していたいたのはJの家。ポイントホープの将来を担う若者として、Jの写真が彼の著作にでかでかと出ている。
当時、星野道夫の名前はそれほど知られておらず、日本人の若者が写真を撮りに来ている、程度に思っていたようだ。
ある日、PとJが話をしていた。
 「え? ミチオってそんなに有名な写真家だったのか?」
(ミチオ:発音は「ミシオ」に近い)
「そうらしいよ。日本じゃかなり有名だったらしい」
「じゃ、相当金持ってたんじゃないのか? でも、うちには食費も何も入れてくれなかったな」
「シンゴでさえ、食費ぐらい出してるぜ」
いや、毎年長期滞在していて、毎年ただ飯食っているわけにはいかないし。

「ミチオの部屋さ、すげー散らかってて、片付けろって言うと、ふらっといなくなっちゃうんだよ」 
申し訳ない。自分もいつも部屋は散らかしている。日本人は片付けない人たちだと思われていないことを望む。

「ミチオが作るチキンカレーはうまかったよな」
彼の著作や、奥さんの話によれば、星野道夫は、自分だけのこだわりのレシピを持っていたようで、特にうまいカレーを作っていたようだ。
自分が居候している家の家族もカレーが好きで、毎日でもカレーでいいと、言っているほど。市販のカレールーを使って適当に作るカレーなのに結構評判は良い。ただ、日本で同じ物を作っても、特に感動があるカレーではない。

星野道夫以降も、クジラ猟を取材に来たテレビ朝日や(滞在期間が短すぎて猟の取材はできず)、TBS「世界不思議発見」の取材班、NHKの取材班などがやって来た。
普段は温厚でもの静かで、のんびりした感じのP(前述のPとは別人)が取材班にガイドとして雇われた際には、顎で日本人のディレクターたちを使っていた。
女性タレントのガイド役としてテレビに映っていたPは、これまた普段は見られないような、機敏な動きを見せていた。
Pのあまりの変化に、画面を見ながら笑ってしまったのだった。

テレビ取材班が来ている際に、自分がその場にいることがある。
ディレクターに役に立ちそうも無い助言をすることはあれ(ホンダのレンタル料の相場なんぞ知らない)、彼らに取材をされることも無く、平穏に過ごしている(テレビに出ても喋ることはないし、喋れない)。

今のところ、テレビで放送されるポイントホープの情報は一過性で、記録としてはほとんど残らないのが現状なので(ビデオ化もないし再放送もされない)、多少の勘違いや間違いも笑っていられる。
ある程度残る媒体で、自分の思い込み、勘違い(あるいは間違い)をそのまま発表し、そのまま受け入れられてしまって、こりゃいかんだろ、というものがあるのも事実。
こういうのを見ていると、自分の家に土足で入り込まれた挙句、自分の家族について、世間に向けて好き放題言われているような気分になってしまう。

ポイントホープについて、何か書いたり作ったりする際は、一声かけていただければ、中身の確認くらいできると思いますよ。おそらくポイントホープ滞在期間が一番長い日本人なので、他の人よりは、多少ポイントホープのことを知っていると思うから。

※このページは敬称を略しております。

2013/01/05

初めてのポイントホープ

この話は、たいそう古い話なので、加筆修正が多々加わる可能性があります。写真はそのうち載せたいですが、あくまでも希望です

今から20年ほど前、1993年8月の終わり頃。アラスカでは秋が始まっていた頃。アンカレジからジェット機で行けるエスキモーの町、コツビュー(英語の発音に近い書き方だと「カッツブー」)の海岸でキャンプをしていた。コツビューは人口は3,000人ほどの北極圏にある町だ。

キャンプをしていたコツビューの空港の南側の海岸には、サケを捕るためのフィッシュキャンプのためのテント村があった。その一角に自分の小さなテントをはらせてもらい、近所の人たち(エスキモー、白人)と、片言の英語でやりとりしながら食事をご馳走になったり、一人でツンドラの薮の中へ歩いて行き、一時の探検ごっこをしてみたりしていた。
コツビュー滞在もそれなりに楽しいのだが、飛行場の周りに何軒かあるコツビュー周辺の町へと飛行機を飛ばしている飛行機会社の建物を見ているうちに、もう少し小さな町も見てみたいと思うようになった。

よくわからないまま、尾翼にホッキョクグマの絵が描いてあるケープスマイス航空の事務所に入り、カウンターの上に置いあった時刻表を貰ってきた。
時刻表には聞いたことのない町の名前がずらりと並んでいる。順番に見て行くと、その中に唯一知っている名前があった。
「ポイントホープ」
中学生の頃、何度も何度も読み返した植村直己氏の著作「北極圏1万2千キロ」に登場した町の名前。グリーンランドからコツビューまで、犬ぞりで旅をした際に立ち寄り、一緒にクジラ猟をした町。その文庫本にクジラが氷の上に転がっている不鮮明な白黒写真が載っていたことを覚えていた(実はそんな写真は出ていなかった。他の書籍載っていた写真の勘違いだと思われる)。
「とりあえず、ポイントホープに行ってみよう」
ケープスマイスの事務所に戻り、ポイントホープのことは何もわからないまま、片言の英語で、翌日のフライトを予約した。

翌日の午後、コツビューを飛び立った数人乗りの小型のプロペラ機。初めて乗る小型機にワクワクしつつ、窓に広がる北極の海岸線やツンドラの大地に見入っていた。
ツンドラの大地が海へと落込む断崖絶壁が続いてい場所で飛行機が高度を落として旋回する。パイロットは副操縦席に座っている一般人と思しき人と何かを話している。
当時はここがどこで、何のために旋回をしているのかわからなかったが、そこは、その後何度も訪れることになるトンプソン岬。そして飛行機は時期的にその付近にやってくるであろう、カリブーの群を探していたのだと思う。

トンプソン岬を過ぎて間もなく、コツビューから1時間ほどで北極海に突き出した砂州の先にある小さな町、ポイントホープが見えて来た。いかにも「地の果て」の様な場所だった。
飛行機の窓から見える海岸には、所々にテントが建ち、わだちのようなものも見える。海岸にテントを張れそうだな、そんなことを考えているうちに、飛行機は次第に高度を下げ、町外れの滑走路へと着陸した。

飛行場には物置小屋のような今にも壊れそうな建物が一軒建っているだけで、他には何もなかった。
途方にくれているとひとりの女性が声をかけてきた。Dと名乗るその女性は、ケープスマイスのポイントホープでの代理店をやっているとのこと。
「これからどこへ行くの?」
「海岸でキャンプしようと思ってます」
「南の海岸? それとも北の海岸?」
何も考えていなかったが、飛行機からずっと見えていたのが南の海岸だったし、南の方が明るい様な気がしたので南の海岸と答える。
「だったらホンダで送ってあげるわよ」
「HONDA」ホンダで作っている4輪のバイク状のATV(All Terrain Vehicle:全地形型車両、4輪バギー)という乗り物。日本語ではホンダだが、英語で言われると「ハンダ」と聞こえる。何のことやらわからず、この乗り物を「ハンドル」と呼んでいるのかと思ったほど、ヒアリングの力はなかった。

「あなた、いつまでこの町にいるの?」
「3日後の飛行機で帰ります」
「それじゃ3日後に迎えに来てあげるね」
町の南側の海岸、放置された白いアルミのボートの脇に降ろしてもらい、彼女と別れた。

テントを張り終えると、時間は既に夕方6時前。腹が減っているが、夕飯を作ろうにも真水がない。店があるに違いないと、水を買いに町へと向かう。
小さな町ゆえ、意外とあっけなく店は見つかったが、既に閉店しているらしい。偶然店から出てきた男に、水が欲しいと訴えると、店内に案内してもらえ、1ガロン(3.8リットル)の大きなボトルを手に入れることができた。

テントに戻り、アンカレジで買ったパンとインスタントスープで、テントの外で海を見ながら晩飯にした。
食事が済んでもまだ明るいので、自分のテントや付近に転がっている白骨化したアザラシのものらしき骨や、風景などの写真を撮りまくる。
今となっては珍しくも何ともない、海岸のあらゆるゴミが、当時は珍しくて仕方なかった。

深夜0時頃、そろそろ寝ようかと思っていると、海岸の砂利を踏みしめる音と子どもの声が聞こえてきた。
「ここで何してるの?」
「どこから来たの?」
「どうやって来たの?」
小学校3〜5年生くらいの男女数名がテントの前に現れ、質問の嵐。
子どもたちの顔つきは、日本人の子どもとほとんど一緒で、着ているものも日本人とそれほど変わりがないので、彼らが英語を喋っているの様子を見ると、まるで日本人の子どもが英語を喋っているようで、不思議な感じがした。

「私の名前、日本語だとどう書くの?」
耳で聞いただけでは、どんな名前かわからないので紙に英語で書いてもらい、それからカタカナで書いて上げると、大喜び。
そのうち飽きたのか、町の方へと帰って行った。

翌朝、ゆっくりと起き(朝寝をして)、朝食を食べてから、町を見物に行く。
町中は、木造の普通の家が立ち並ぶ。主な道路は舗装されていて、ピックアップトラックや、ワゴン車、ホンダが町中を走り回っている。
巨大な高床式の建物が町の中心に建っている。これは学校らしい。
町中で出会う人たちは、毛皮のフードのついた綺麗なジャケットを着ている女性やアンカレジあたりで売っていそうなありふれた防寒着を着ている人まで様々。

昨夜、水しか買わなかった店に行って見ることに。
「ポイントホープ・ネイティブストア」それが店の名前。
日本の田舎にある個人経営のちょっと大きめのスーパーという感じだろうか。野菜、冷凍食品、薬など、一通りのものは置いてある様子。エスキモーの食べ物、例えばアザラシなどが置いてあるかと思っていたが、そういうものは一切置いていなかった。

店内を一回りして、外へ出て、さてこれからどうしよう? と入口のところで考えていると、一人の女性が声をかけて来た。
簡単に自己紹介をして、レストランや喫茶店があるか聞いてみたが、そういうものは一切無いという。
話をしているうちに、一緒に昼ご飯を食べないか? と言っているらしいことに気がついた。
なぜ初対面で見ず知らずの自分に対してそんなことを言ってくれるのか謎だったが、悪い人でもなさそうなので着いて行って見ることにした。

ホンダの後ろに乗ってたどり着いた彼女の家の周りは、ゴミともなんとも言い難いものが散乱していて、雑然としている。家の中も雑然としていて、チワワが走り回っている。壁には大小様々な写真。これがエスキモーの家なんだろうか?
彼女の名前はE。今は一人暮らしをしているらしい。
「そういえば、あんたの名前はなんだっけ?」
と何度か聞かれる。初めて聞く日本語の名前では、中々覚えられないだろう
「シンゴだよ。音的にはビンゴに似てるよね」
「シンゴビンゴシンゴビンゴ… よし、覚えた」

Eが昼ご飯にご馳走してくれたのは冷凍食品のフライドチキンだった。
食後、彼女が海岸や昔の家のあるあたりで見付けたという、古い石の鏃(やじり)や、セイウチの牙製の古い道具などを見せてくれた。日本だと2000年以上前に使われていた石器だが、この付近では数百年ほど前まで使われていたものだそう。そんな博物館に入っていても良さそうな遺物が、Eの家の戸棚や袋に入れて保存されていた。

Eは午後から仕事だが、明日は休みなので、ホンダでどこかへ連れて行ってくれるという。そしてテントまで迎えに来てくれるとのこと。
昼食後、Eは再び仕事へ出かけて行ったので、町を少し歩いたあとテントへ戻ると、中が荒らされていて、日記や懐中電灯などがなくなっていた。
入り口に鍵をかけていたが、ベンチレーター(換気口)から手を突っ込まれてものを盗られたらしい。

落胆していると再び子どもたちがやってきたので、物を盗られたことを説明すると、何名かの名前を上げていたが、それが誰なのかわかるはずもない。
警察に言うのか? と聞かれたけれど、金目のものは盗られていないし、大した被害でもないので、言うつもりはなかった。ただ、この旅をずっと記録している日記だけは返して欲しかった(後でテントからさほど遠くない場所に落ちているのを見つけた)。

夜。昨晩同様、何度か子どもたちの襲来があった。
かなり太った15歳くらいの女の子が、大きなジップロックに入った大量の冷凍キイチゴをくれた。サーモンベリーというキイチゴだそう。よく見れば色といい形といい、サケの卵によく似ている。
サーモンベリーをくれた女の子の名前は聞いたはずなのに覚えていないし、顔もよく覚えていないので、今となってはあれが誰だったのか、知る由もなく、なぜ彼女がサーモンベリーをくれたのかは謎のままである。

夜も遅くなり、子ども相手で疲れたので寝袋に入って寝ようとしていると、海岸の砂利を踏みしめる音が聞こえてくた。
また、子どもが来たのか、今回は無視しよう、と思って寝たふりをしていた。しかし聞こえて来たのは大人の女性の声。
何事だろう、とテントから顔を出す。
「昨日から海岸のテントで寝ている外国人がいて、子どもたちにいじめられているって息子が言うから見に来たの」
多分、そんなことを言ったのだ、と思った。とにかくヒアリング力はない。
ふと見れば、傍にトラックが止まっている。気がつかなかったが、彼女はトラックでテントの脇にまで来ていたのだった。
「よかったらうちに来ない?」
そんな風に言われたような気がした。
「この間もイスラエルからのお客さんが来ていたし、遠慮しなくていいのよ」
と言ったらしい。
ここまでを理解するのに身振り手振りを交えて、かなり必死な状態だった。
トラックの荷台にテントや荷物を放り込み、彼女の家に向かった。

彼女の名前はe、家には旦那さんのPと昼間、海岸で遊んだ男の子が2人リビングで毛布にくるまってテレビを見ていた。そして3歳くらいの女の子と1歳くらいの赤ちゃん。
エスキモーの家とはいえ、特に変わった家ではなく、普通のアメリカ人の家といった感じ。いや普通のアメリカ人の家を知らないので、何を持って普通と言っていいのかわからない。
大きなバスルームにあるトイレはバケツに便座が付いたものだった。それくらいがいわゆる普通の家と違う思われるところ。

英和和英辞典を片手に身振り手振りで話しをした。
何歳に見えるか、と言うので、中学生くらいの男の子が2人もいるのだから、40歳くらいか、と思ったら、1人は息子Hの友だちだった。そしてeとPの年齢は30代前半。自分と10歳も離れていなかった。
しかし、いずれこの夫婦を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼ぶことになろうとは。そして、当時中学生だったHのことを兄弟と呼び、彼が結婚して住んでいる家に居候することになろうとは思いもしなかった。

寝るために貸してもらった息子の部屋は、壁も天井も、プロバスケットボール選手のポスターで埋め尽くされていた。中でも多いのはシカゴブルズのマイケル・ジョーダン。
マイケル・ジョーダンに見つめられ、北側の窓から射し込む太陽の光を浴びながら眠りについた。

翌日、eとPに昔の町があった空港の西側へと連れて行ってもらった。クジラのあごの骨で骨組みを作り、芝土で覆った家。木造の建物の周りに芝土を積み上げて断熱材代わりににしている家。
1970年代に高潮による被害を避けるため、現在の町に集団移住してしまったので、ここに住んでいる人はいないという。

家に戻って写真を見せてもらったりしながらくつろいでいると、Eがやってきた。
「やっと見つけたわよ。探したんだからね」
昨日の約束を忘れておらず、町中を探し回ってくれていたようだった。
「暖かいジャケット持ってる?」
eが言う。
その時、自分が着ていたのは、薄い雨ガッパで保温性はない。
Hが着ているというエスキモーのジャケットを出して来て貸してくれた。
ファスナーの無いプルオーバー式の毛皮(羊)のジャケットで、首周りが少々小さくて首を出すのは大変だったが、着てしまえば特に問題はなさそう。
そのジャケットを着て、どこへ行くのかわからないまま、Eのホンダの後ろに乗って出発した。

海岸の砂利道を全速で走り続けるE。振り落とされたら首の骨が折れて死んでしまうな、そんなことを考えてしまうくらいスピードを出しているように当時は感じていた。しかし、当時のホンダは排気量が小さく、さらに二人乗りだったので、それほどスピードは出ていなかったのではないかと思う。
ポイントホープに来るときに、飛行機から見ていた海岸線を逆方向へと走った。右手に海。左手にはツンドラの丘や湖が現れる。

途中「ピングッチャック」と呼ばれる場所で休憩。
海岸段丘を上がってすぐの場所には、古い建物の跡とおぼしきクジラの骨が地面から突き出していた(今は段丘が崩れてしまい、住居跡はもうない)。
段丘の上のツンドラを歩いていると、USGS(米国地質調査所)が地図を作る際に使用している測量用の杭が目印として地面に突き刺してある。
「ここも誰かの土地になのよねえ」
目印を見ながら、つぶやくように言うE。
エスキモーが自由に猟をしていた土地が、誰かに「杭」を打たれ、彼らのものではなくなってしまい嘆いている、そんな風に感じていた。
しかし、ポイントホープ周辺の海岸には、かなり密に所有権がある(これを知ったのは、つい最近のこと)。あのとき、Eはこの場所がアメリカの土地になってしまったことを嘆いていたのではなく「ここもポイントホープの誰かの持ち物なのよね」と、自分に言い聞かせるようつぶやいていただけだったのだと思う。

さらに東へ向けて進んで行くと、彼方に見えていた断崖絶壁がどんどん近づいて来る。
海岸にホンダを止めて、段丘をのぼると、北に向かって広がるツンドラの先に、気持ち良さそうなツンドラの丘陵地が広がっている。
「あそこに丘がみえるでしょう? あの丘の上に気持ちのよいトレイルがあるから連れて行ってあげたいんだけど、ガソリンが無いから今回はちょっと無理ねえ」

そこから数100m走ると、きれいな水が海へと流れ込んでいる場所にたどり着いた。
目の前には、巨大な崖。
 イスックと呼ばれるその場所は、トンプソン岬の丘へと上がって行くトレイルの入口でもあった。
人々はこのトレイルを通って、トンプソン岬の向こうへと獲物を探しに行くのだそう。

「何か容器を持ってくればよかったねえ」
イスックの水は美味しい水なので、ポイントホープの人たちは、わざわざここまで汲みに来るのだそう。
(当時、既にポイントホープに水道は普及していたものの、水源はツンドラの池で、その水を濾過消毒して使っているため、それほど美味しい水ではない。各家庭に浄水器が普及する10年ほど前までは、タンクやバケツを持ってここまで水を汲みに来たり、雨水を飲用に使っていたが、今では浄水器が普及したので、わざわざ水を汲みに来ることはなくなった。)

イスックにて。今では信じられないくらい細いE
流れの脇には、誰かが火をおこした跡の横にカリブーのあごの骨の一部が落ちていた。こんなどうでも良さげなゴミの様な骨でさえ当時は珍しく、Eに見つからないように、こっそりとポケットへ入れた。いつかまた、この場所に帰って来ようと思いながら(その後、その骨はゴミになった)。

流木に腰を下ろして、煙草を吸いながら、話をしたが、覚えていることは「馬」と「ウーマ」について。ウーマとは自分の配偶者と同じ名前の人のこと。日本語で同じ発音だと「馬」のことだよ、と。

振り落とされる恐怖を感じながら、 町に戻り、ポイントホープで最も特徴的な場所、墓地に案内してもらった。
墓地はクジラのあごの骨で周りを囲まれ、その中にいくつもの十字架が立っている。アラスカのエスキモーを紹介する本にはよく出て来る場所だ。
十字架の中に、新しくて大きい二つの十字架がひとつになったものがあった。
「これは私の双子の娘の墓」
 つい最近、ホンダの事故で亡くなったのだという。
日本語でさえ、そんなときにどのような言葉をかけてよいのかわからないのに、英語力の無い当時は、本当に何も言えなかった。
大声で笑い、冗談ばかり言っているEからは、想像もつかなかったが、そんなことがあったとは。

家まで送ってもらった別れ際、太陽の位置を見ながら
「今は5時20分くらいかな」
というE。
腕時計を見るとまさに5時20分。
エスキモーってすごいな、いやEがすごいんだろうか。

eの旦那さんPとともに、彼のお父さん(育ての父)とお母さんの家に。家に入ると、何か独特の匂いがしていた。今になって思えば、それはシールオイルの匂い。
最近の若い人の家では、シールオイルの匂いを嗅ぐことはほとんどなくなってしまっているが、今でも、お年寄りの家のドアを開けるとシールオイルの匂いがすることがあり、何となくほっとする。
Pのお父さんは、クジラ猟のキャプテンをしているという。クジラに撃ち込む銛を見せてもらった。太い木の柄に真鍮の先端部。非常に重く、よくこんなものを投げられるものだと思う。
Pに、父親を継いでキャプテンになるのか?と聞くと、はにかみながら「まだわからない」答えていたが、それから10年ほどでPはキャプテンになった。

翌日はポイントホープ最終日。午後の飛行機でコツビューへと戻る。
学校で働いているというeに学校へ連れて行ってもらった。
教室へ入ると、海岸のテントへ遊びに来た子どもたちの姿が見える。
「日本の話をして」
と先生に言われるが、英語は聞くのも喋るのも悲しいくらいできない。どうしようかと思っていると、子どもの一人が
「ぼくの名前、日本語だとどうなるの?」
というので、黒板に名前を書いてもらい、それをカタカナに。先生的には問題があるかもしれないけれど、子どもには喜んでもらえた。

いよいよポイントホープを去る時間が近づいて来た。
eが別の場所で仕事をしているEを探し出してくれ、お別れのハグをする。
どうでもよいことだが、この頃のハグは、慣れていなくて腰が引けていた。
「また、遊びにおいで」
eと腰の引けたハグをして飛行機に乗り込む。

離陸した飛行機は、Eと走った海岸の上を飛んで行く。
様々な人たちとの出会いに感謝しながら、感傷的な気分になって行く。来年もまた、この町の人たちに会いに来よう、そう思った。

自分がこのあと、20年以上に渡って毎年のようにポイントホープに通うようになるとは、そのときは思いもしなかった。


2012/12/23

ヘンリーとエマ

昔、まだ夏休みにポイントホープに通っていた頃。
海岸を歩いているとき、孫をホンダに乗せて海岸を走っていたヘンリーと出会った。
「この間、クジラのビデオを撮ったから家まで見に来ないか?」そんなことを言われたのではないかと思う。

ヘンリーの家。大きな窓が並んだリビングルーム。窓から明るい日射しが差し込んでいる。
ソファに座ってヘンリーと話をしていると(当時の英語力だと、ヘンリーの話を一方的に聞いているに等しい)、奥さんのエマがお茶を出してくれた。
太い眉に温和だが鋭い目、小柄で無駄な肉はついていないヘンリーと、大柄で無駄な肉がたくさんついている、大きな声で良く笑う、もじゃもじゃ頭のエマ。
ヘンリーは何年もクジラ猟のキャプテンを続けている。かつては学校で働いていたが、 今は仕事から引退して悠々自適の生活。好きなときに猟に出られる今の生活に満足しているという。

家には何人もの孫が出入りしていて、常ににぎやかだ。 時々、ヘンリーの兄弟や子供たちも顔を出す。
その孫の中に、現在の居候先の主人Hの奥さんとなるEもいたはずなのだが、ほとんど記憶にない。
余談だが、今のEは、見事にエマの血を引き継いでいて、無駄な肉がたっぷり付いている。

毎年、夏の間の短期滞在のたびに顔を出し、その都度ウグルックやセイウチ、カリブーなど、エスキモーの食べ物(ニカパック)をご馳走になった。
時々、ヘンリーと彼の友人がエスキモー語で会話するのを聞くことも楽しみの一つだった。
何を言っているのかまったくわからないが、あまり抑揚がなく、独特の発音のあるエスキモー語の会話を聞いているのは、なぜか心地良かった。

ある時、ヘンリーの家の近所を歩いていると、玄関先に立っていたエマが大声で叫んでいる。
「シンゴー、ヘンリーは中にいるよー!」
寄るつもりはなかったが、せっかく声をかけられたので寄っていくことに。
お茶と食べ物をご馳走になり、写真を見せてもらったり、他愛もない話しをしたり。
エマが嬉しそうにベッドルームから何かを持ってきた。
「ほら、これ、あんたにもらった日本のバッグ、大事にしてるんだよ」
前年、成田空港へ向かう途中の、上野駅前の外国人向けのお土産屋で買った、和柄のバッグだった。一度も使っていないようで、シワひとつ付いていない。
以前ヘンリーにあげた肥後の守(ナイフ)は、彼のポケットに入っていて、干し肉を切って食べる時などに使っているらしい。
贈ったものを大事にしていてくれるのは、本当に嬉しい。

ある年、ヘンリーの家に行くとエマの姿はなかった。
病気でアンカレジの病院に入院しているが、明日帰ってくるそうだ。
何の病気かと聞くと、胃ガンだという。胃の一部を手術で摘出したとのこと。
何となく暗い気持ちのまま迎えた翌日。ヘンリーの家に行ったが、まだエマは帰って来ていなかった。
出直そうと思っていると、玄関からどたどたと大きな音と、大きな声が聞こえて来た。
何か言いながら家に飛び込んで来たのは、エマだった。
家に入るなり、挨拶もそこそこに、テーブルの上に置いてあった茹でたセイウチの肉を食べ始めた。
「やっぱりエスキモーフードはおいしいね、病院のご飯はおいしくなくていけないわ」
そう言いながら、がつがつと食べているエマ。本当に胃ガンで胃を切ったんだろうか。そんな疑問が浮くほどの食べっぷりだった。
一段落して自分の存在に気がついたエマ。
「あら、シンゴじゃない、今年も来たのね。久し振り」
この食べっぷりだったら、もうガンは完治したに違いない、そう思った。

翌年、再びエマの姿は家に無かった。
アンカレジの病院に入院しているとのこと。
病院の場所を聞き、日本へ帰る前に寄ってみることにした。
病院へ行き、受付で彼女の名前を告げるが、そんな人は入院していないと言う。科を間違えたかと思い、別の科でも調べてもらったが、エマはいなかった。

帰ろうかと思い病院内を歩いていると、後ろから
「コツビューから来たの?」
と声をかけられた。
そのとき来ていたジャケットは、コツビューの飛行機会社で買った、会社名と地名の入ったジャケットだった。
その人は、身内の付き添いのためにコツビューから来ているとのこと。もしかしてと思い、エマのことを聞いてみた。
「彼女だったら、昨日、ポイントホープに帰ったわよ」
残念ながら、エマには入れ違いで会えなかった。でも、退院したのなら、快復したはずで、きっと来年には会えるだろう。
そのときはそう思っていた。

エマが亡くなったのは、それから間もなくだった。

ポイントホープに長期滞在するようになった2000年以降も、ヘンリーはクジラ猟のキャプテンを続けていた。
ヘンリーのキャンプのすぐ隣に我々のキャンプを設置したことがあった。
悠然とそりに腰掛けてクジラを待っているヘンリーの姿は、月日を重ねて来た者が持つ風格があり、ほれぼれするほど格好良かった。

ある年、大きなクジラを捕らえた。それがきっかけになったのか彼は引退を決意し、息子にキャプテンの座を譲った。
引退後も、息子たちにアドバイスを与えながらクジラの猟には関わり続けていた。

「シンゴ、ヘンリーはガンだそうだ。手術して腕が動かせなくなってる」
その年の5月、ポイントホープへ行き、まず聞かされたのはそんな話だった。
「ウソだ」そう思った。
前年、ポイントホープ最後の日、飛行場まで見送りに来てくれたヘンリーは、どこも悪い場所はなさそうで、とても元気そうだった。

ヘンリーの家へ行くと、ヘンリーは片腕が完全に動かせなくなり、心なしかやつれたような感じだった。
病気の人にこう聞くのもなんだと思いながら
「元気?」
と聞いた。
「ちょっと調子が悪いけど、まあ大丈夫だよ」
孫に命じてお茶を用意させ、自分もお茶を飲みながら、片手で小さく切ってもらった肉を食べている。
「昔、日本人が調査か何かでポイントホープに来たことがあってね、炊飯器を貰ったことがあるんだよ」
「日本の食べ物って食べたことある?」
「アンカレジのレストランで食べたことあるよ」

あまり突っ込んだことは聞きたくなかったが、体調について聞いてみた。
「腕、どんな感じ?」
「動かないんだよ。医者はガンじゃないって言ってるから、きっと大丈夫だろう」
「そっか。医者が大丈夫って言ってるんだから大丈夫だね」

ポイントホープを去る前の日、ヘンリーの家に行った。
ヘンリーは、自分がポイントホープに来た2ヶ月前より明らかに衰えている。
「ヘンリー、来年またポイントホープに来るから、そのときは猟に連れて行ってくれる?」
「ああ、いいよ」
「そうだ、そしたらお礼に日本の料理を作ってあげるよ」
「おお、それはいいな。楽しみにしてるよ」
「一緒に猟に行くの楽しみにしてるから、元気になってよね」

ヘンリーの家を出ると、急に悲しくなって来た。
なんで自分は、絶対にできない約束をしているんだろう。
涙が出そうになるのを必死にこらえながら、家に戻った。

翌年、自分はヘンリーとエマの墓の前に立っていた。
「ヘンリー、エマ、今年も帰って来たよ」
それだけ言ってしばらく佇んでいた。

「シンゴ、こんなナイフが親父の工具箱から出て来たんだけど、覚えてるか?」
あるとき、ヘンリーの息子、Jの家に遊びに行ったとき、Jがナイフを見せてくれた。
それは昔、ヘンリーにプレゼントした肥後の守だった。
何度も研いだ形跡があり、所々刃こぼれしている。ずっと使ってくれていたのだろう。
「刃こぼれしてるし、切れなくなってるな」
「日本のナイフはちょっと研ぐと、ものすごく良く切れるようになるよ」
「高いんだろう? これ」
ヘンリーとエマ(ヘンリーに貰った写真)
「安いナイフだよ。中学生のとき、毎日同じナイフ使ってたんだ。Jも研ぎ直して使うといいよ」

今も雪が溶けて雪に埋もれた墓標が現れる頃になると、必ずヘンリーとエマの墓へ向かう。
「帰って来たよ」
と言いに。