2012/12/09

6月の海はクラゲの海

四k試験管に例えば海面が全面結氷していると、水面はないので波音はなく、風が吹いていなければ氷の上に積もった雪が音を吸収して、とても静かである。

氷の上で何かきしむような音がしてきたら、それは氷が動いている危険な兆候。付近のクラック(亀裂)に注意しておかないと、陸に戻れなくなることがある。

春、4月下旬になり、海が開くとクジラの猟が始まる。海が開いているのは海岸部ではなく沖合。波はほとんどなく、聞こえてくるのは、時々水が氷を叩く、チャプチャプという小さな音。クジラが目の前を通過して行くと「ブホォ」という大きな呼吸音。ベルーガ(シロイルカ)の群れのときは「ブホ」というちょっと小さな呼吸音が連続する。
波の音が聞こえるような、風が強く海が荒れた日は非常に危険なので、猟に出ることはない。

クジラを追ってウミァックを漕ぎだすと、パドルが波を切る音と、船が水を切って進む音がするが、皮製の柔らかい船体は波も音も吸収するので意外と静かである。
氷点下5度以下に下がった寒い日、海面がシャーベット状に凍り始める。そんな中をクジラを追ってウミァックが進むと、氷が船体と擦れてシャリシャリと音を立てる。
クジラが近くにいる緊迫した場面では、その音が非常に大きく感じることがある。

ウミァックを漕ぐためにパドルを水から出し入れする際に「バシャッ」と比較的大きな音を立てることがある。その音でクジラに気付かれてしまうことを恐れ、かつてはパドルを水から出さずに漕ぐこともあったと聞いたことがある。しかしその漕ぎ方ではスピードが出ないためか、実際にそうやって漕いでいるのは見たことはない。

風向きが変わると、氷の動きも変わってくる。沖から岸に向かう風になると、広々と開いていた開水面は、あっと言う間に閉じてしまうことがある。海水面が閉じれば猟はできないので、撤収をせざるを得ない。
氷が押し寄せて海水面が閉じると、今まで水と氷の境目だった場所に氷の尾根、氷脈ができ始める。氷がきしむ音と、持ち上げられた氷が崩れる音がするものの、巨大な力が加わっている割には音は小さく、静かだが、その分、その迫力に圧倒されるのも事実である。

クジラの猟が終わる頃、氷が溶けて薄くなった5月下旬から6上旬、北風の吹き荒れた次の日、突然海岸部の氷が流れ去ると、懐かしい波の音が聞こえるようになる。

波の音と共に潮の香りもするのかと思えば、かすかに漂って来るのは、打ち上げられたセイウチやクジラの独特の腐敗臭。
「クジラが腐った匂いって、人間の腐った匂いといっしょ?」
昔、インド帰りの女の人に、陽気に聞かれたことがある。ガンジス川では普通のことらしい。しかし人間の腐った匂いはさすがに知らない。

ポイントホープめでは、潮の香りはほとんどしない。日本の夏の海の、むせかえるような潮の香りは、海岸に打ち上げられた海藻から発せられていたことに気がつくのは、氷の海で過ごすようになって数年後のこと。
ポイントホープ付近の海底に海藻がないことはないと思うが、海底から打ち上げられてくるのは、カイメンとヒトデとユムシくらい。あたり一面に匂いを発するほど大量に打ち上げられることは、ほとんどない。

氷の海、水温は低いが、栄養分は非常に豊富で、食物連鎖の下位のプランクトンから上位の哺乳類まで、豊かに生息している。
6月上旬、氷の浮いた海でウグルックを追っているときに海を覗き込むと、大小様々何種類ものクラゲやヤムシの姿。ヤムシはプランクトンの一種。日本近海で見られるヤムシの仲間は全長数ミリなので、捕まえてからルーペなどて拡大しないとよく見えないのだが、この海では、数センチと巨大なヤムシが泳ぎ回っているので、肉眼で水面からでもよく見える。
クラゲは、よくこの状態で船外機の冷却口が詰まらないな、と思うほど大発生していることもある。もし、バケツですくえば、バケツの中は水よりもクラゲの方が多いのでは、と思えるほど。
このクラゲたち、海岸へと打ち上げられて干からびていくが、特に匂いを発することもない。

ある年、海岸で猟の準備をしていると、水の中を赤いものがいくつもひらひらと泳いでいる。ヤムシだったら無色だ。
試験管の中のハダカカメガイ
よく見ると、それは大型のハダカカメガイだった。日本では「氷の天使クリオネ」と呼ばれている殻のない貝の仲間。
聞けば、ポイントホープの人たちは、この生き物を見たのは始めてだと言う。意外な様だが、考えてみれば、自分も10年ほど氷の海を覗いていて、始めて見たハダカカメガイだった。
水温0度の水に手を突っ込み、コップで捕まえてみる。
赤いのは身体の中心部付近。アルコールに漬けると、鮮やかな赤い色は消え、半透明だった身体も濁り、ありふれた軟体動物のサンプルとなってしまった。
余談だが、ハダカカメガイが餌を食べている姿を見ると、誰がこれを天使と呼ぶようになったのか、不思議に思うに違いない。

氷の浮いた6月の海。氷が波を吸収するのだろう、風が止むと完全に波がなくなり、本当に鏡のような水面となる。
白夜の海。太陽は北の空に。
深夜、太陽が北の空へ移動し、沈みそうで沈まずにいる頃、夕焼けと朝焼けが一度にやって来る。
ピンク色のような紫色のような、不思議な色の光と雲が水面に映り、幻想的な空間が現れる。
ボートが起こした波もすぐに消え、周りの光に見とれてしまい、獲物を探しながら海を漂っていることを一瞬、忘れてしまいそうになる。

オーロラ目当てで真冬のアラスカを訪れる日本人が多い。吸い込まれるような幻想的な光は確かに美しいと思う。
しかし個人的にアラスカでオーロラ以上に美しい自然現象は、春から夏にかけて、北極圏の長時間続く夕焼け(朝焼け)ではないかと思っている。


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