「まだ起きてるのかよ。またパソコンいじってるし」
と言いながら家主のHが入って来た。
「お前こそなんで起きてるんだよ」
「眠れなくてテレビ見てた。ところで、疲れてないか?」
Hが夜中に部屋にやって来て、疲れてないか?と聞くときは、大抵何かを企んでいるとき。
「昼間ずっと寝てたから全然疲れてないよ」
「今から卵とりにいかないか?」
「スーパーに? 今だったら誰もいないから盗りやすいね」
「そうじゃなくて、トンプソンに」
とういわけで、我々は物置からロープを引っ張り出し、サンドイッチとコーラ、ジュースをホンダに積み込んで、トンプソン岬へと出かけて行った。
深夜とはいえ日の沈まない白夜なので、いつ出発しようとも関係ない。海には、今季最後の小さな氷が幾つか浮いているが、次の北風で海から氷はなくなるだろう。
海岸を1時間弱走り、トンプソンの丘の麓、綺麗な水の流れるイスックで一休みがてら、水筒に水を汲み、トンプソンの丘を登って行く。
ツンドラの台地を走って行くと、いつもの匂い、鳥の糞の匂いがしてくる。そこが目的地。
「体重から言ってオレが降りるんだろうな」
「そういうことだね」
体重の軽い自分が崖を降りることになった。
ハーネスがないのでロープを身体に縛り付け、反対の端をホンダに縛ってアンカーに。万一滑落しても、ロープの長さ以上に落ちることはなく、最悪ホンダで引き上げられる(絶対に落ちたくはないが)。
普通、ロープを握るのは3人以上。一人ということは安全上あり得ないのだが、今日はH一人だけ。
粘板岩質のボロボロの脆い崖。急角度で落ち込む斜面の高さは海まで100mはあるだろうか。
実は、高い場所に何の支えもなく立つのはとてつも無く怖いのだが、柵があったり、身体がロープで支えられていれば、不思議なことに恐怖感は全くない。
そろそろと斜面を下って行く。最初の断崖に卵はほとんどなく、さらに下へ。
「まだロープあるかー?」
「まだあるよ!」
「じゃあ少し緩めて!」
崖の上と下で、大声で叫びながらやり取りをする。
崖っぷち。アッパルーラックと割れた卵 |
「卵あるかー?」
「今、拾ってる!」
身体の前にぶら下げたデイパックに卵を入れて行く。長い柄のついたスプーンを使うが、何度か卵を落としてしまった。来年はもっと使いやすいものを作ろう。
卵の横に干からびて煮干のようになったイカナゴが1尾落ちていた。アッパルーラックが普段餌にしているものだろう。イカナゴはウグルック(アゴヒゲアザラシ)の腹の中からも出て来るから、このあたりには豊富にいるのかもしれない。
「まだロープある?」
「もうない、ギリギリいっぱい!」
これ以上崖を降りることはできず、拾える範囲の卵は拾い尽くしたのて、上まで引き上げてもらう。
「ロープが足りなくて、ホンダに結んであったのほどいてギリギリだったんだよ」
「えっ。まじ?」
ロープの端はあと1m程度しか残っておらず、落ちたら二度と上がって来られない状態だったらしい。
2年後の7月上旬の夕方近く。
「Tから卵を拾いに行くって携帯にメール来てるけど、どうする?」
「H、お前はどうするの?」
「嫁さんの調子悪いから、一人で行って来きていいよ。ホンダはガソリン入ってるから」
「わかった。行くって連絡入れといて」
この数日前、Tたちとトンプソン岬まで卵を拾いに行った際、後日また出かけようということになっていた。
出発の準備をしていると、TとZが家まで迎えに来てくれた。今回は無線機を2台用意して準備万端。崖の上と下から叫びあう必要はない。ハーネスは日本から持って来たロッククライミング用のもの。
トンプソン岬のいつもの場所。ロープとハーネスの準備はできた。
TとZを見ながら
「えーっと、オレが降りるんだよね」
と言うと、二人は声を合わせて
「そういうことになるね」
Tは太り過ぎでハーネスのベルトが留まらないのは明らか。Zはハーネスに信頼がおけないらしく、まずお前が試せと、懐疑的な顔をしている。
ハーネスを装着し、無線機のテスト。
「オレは英語出来ないから、無線機には日本語で話しかけるように」
「日本語っていうと、バンザイとか?」
「うーん、それはたぶん、落ちるときに言うかもしれないけど…」
いつもの斜面をそろそろと降りて行くと、ロープが岩を引っ掛け、すぐ横を拳大の石が落下して行く。
途中の崖に卵はない。昼間、Aたちが卵拾いに来ていたらしいく(ものすごい量の卵の写真がフェイスブックにアップされていた)、拾い易いところのものはすべて拾われてしまったようだ。
頭に付けたカメラで撮影 |
自分で作ったスプーンで遠くの卵を拾う。最初は少し失敗して卵を落としたが、要領がわかると、非常に使いやすいスプーンだった。自画自賛とはこのことだな、と思いながら、崖を一歩降りると、卵を踏み潰した。
無線機で上げ下げの指示をしながら、崖を横へと移動する。
近くまで行っても逃げないアクパス(アッパルーラック)に、ごめんよと言いながらスプーンで卵を拾う。
目に付く範囲の卵を拾い終わり、降りて来た崖をロープに引かれながら登り返す。
身体の前にぶら下げたデイパックが岩にぶつかって、卵が幾つか割れてしまったが、30数個の卵が採れた。
隣の斜面へと移動する。
今度は小さめのハーネスを無理矢理つけたZが斜面を降りる。
崖の上は意外と暇なので、Tと世間話をしながらロープを握っている。
「子供の頃、テレビでドラゴンボールZっての見てたけど、あれは日本のもの?」
「そうだよ。こっちでも『カメハメハー』ってやってた?」
「うん、やってたよ」
と、ロープから手を離してカメハメハの動きを真似するT。
今回はホンダを支点に、ロッククライミング用のカラビナを滑車代りに使っているので、一人でも滑落を止められないことはないとは思うが、出来ればロープは離さないで欲しい。
30分程して、Zが上がってきた。
「玉が痛い」
卵を拾っているZ |
Zの話しによると、西の斜面の卵はほぼ採り付くしたが、東の斜面にはまだありそうだとのこと。
ダメだとは分かっているが、試しにTにハーネスを着けてみる。
「思い切り腹を引っ込めて見ろ」
ハーネスの金具の端にかろうじてベルトが止まっている。
「これじゃすぐにハーネスが外れて落ちるな。どうする?」
「なんだか腹のところで身体がちぎれそうだから止めておくよ。来年までには痩せておくから」
「去年も同じこと言ってたよな」
「そうだっけ? でも、なんで日本人はみんな細いんだ?」
「食事のときに必ず箸を使うからね。箸を使えば食べ過ぎることはないし」
「そうか。今度アンカレジ行ったら、箸を買うよ」
ということで、太ったTはロープ専属になり、再度自分が降りることに。この斜面は降りたことがないので、ちょっと緊張する。
Zの言う通り、東の斜面に卵が見える。
卵を拾いつつ、斜面を下りながら、少しずつ東側へと移動して行く。身体の前にぶら下げたデイパックが徐々に重くなって行く。
急斜面に出来た幅3m程の小さな谷の向こうにたくさんの卵が見える。谷を越えれば拾い放題だが、足場は脆く、手をかける場所もないので、断念する。
上を見ると、このまま直登すれば崖の上に戻り易そうで、卵ももう少し拾えそうだ。
卵を割らないよう、デイパックを背中に背負い直し、登ろうとして岩をつかむと、つかんだ岩がそのまま剥がれる。それを下に放り投げて、比較的しっかりした手がかりをどうにか見つける。足を乗せると崩れ落ちる足場。左右に足を移動させ、比較的しっかりした足場を見つけ、崩れないように祈りながら、ゆっくりと身体を持ち上げる。それの繰り返し。
かなり東側へと移動してきているので、ここで落下すると、上でロープを握っているTとZの真下までブランコのように移動することになる。それも崖に擦り付けられながら。
「そうなると擦り傷だらけで血まみれでかなり痛いだろうな。今やっていることは、旅行保険で言うところの『道具を使った危険な行為』だよなぁ。そうすると滑落して怪我したり死んじゃっても、保険は下りないんだろうな」なんてことを考えながら移動を続ける。
ある程度崖を上がり、足場が安定したところで無線機で上に聞く。
「ここをまっすぐ登って行くと、上まで行けるのか?」
「無理だよ」
「無理?」
「うん、無理。そのまま左に移動しないと引き上げられないよ」
「わかった」
左手を見ると、土と岩が混ざったぼろぼろの急斜面。そこを通過して元来た場所へ戻るしか上へ戻る手段は無いらしい。さて、どうしたもんだろう。落ちれば血まみれだろうし。
崖で苦戦中(Tによる撮影) |
ぎりぎりの状態で斜面に張り付いていて、すぐにでも滑落しそうな危険な状態だが、このときはなぜか「絶対に落ちない」と言う自信に満ちていた。もちろん何の根拠も無い。アドレナリンが出て興奮状態だったわけでもなく、なぜかとても落ち着いた状態だった。
ゆっくりと横へ移動する。バランスがどうにか取れているのは、昔やっていたロッククライミングのおかげ。始めてロッククライミングをやっていてよかった、と思う。
しばらく悪戦苦闘した結果、見たことのある斜面にまで戻って来た。
「どうだ? 無事か?」
無線機から声が聞こえてくる。
「疲れたけど大丈夫だ。ちょっと休むから、少ししたら引っ張り上げてくれ」
斜面でロープに身体を任せて1分ほど休憩した後、崖の上へと引き上げられた。
動けなかった時間も含め、1時間ほど斜面に張り付いていたようだった。
喉はからからに乾き、汗だくになっていた。
セブンアップを渡してもらい、一気に飲み干す。
その後、別の斜面に移動し、Zがかなりの数の卵を拾い集めた。
その日の収穫は250個ほど。一人当たり80個以上のニギャック(分け前)となった。
「今回も落石があったね」
疲れたTと卵 |
「本当はヘルメットかぶってないと危ないんだよな」
「来年は職場からヘルメット持って来るかな」
「それはいいかもね」
「あ、家にアメフト用のヘルメットあるよ、あれでもいいかな」
「じゃ、肩にあの防具も着けたら完璧だね、すごく重そうだけど」
「うん、ヘルメットも防具もすごく重い」
出発が遅かったこともあり、家にたどり着いたのは深夜3時過ぎ。
やはり後片付けもせずに卵を茹で始め、寝る前に採れたて茹でたての卵を家族とともに食べる。
卵はたくさんある。近所にお裾分けしても、たくさん残るだろう。チャーハンにして、エッグサンドイッチにして、焼うどんに入れてもうまいよな、などと思いながら、ベッドに潜り込み、昼過ぎまで寝ていた。
そして、昼間寝すぎて、再び眠れない夜がやってくる。
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